2008年4月8日 18時23分
こだまん
ITバブルが崩壊した直後の2002年。後発かつ逆風の中での船出と分かっていながらも、「自分のやりたいことをやっていきたい」との思いに押されて起業したシリウステクノロジーズの宮澤弦氏。
位置情報をベースに最適な広告を配信するサービス「AdLocal(アドローカル)」で知られる同社だが、宮澤氏はその落ち着いた雰囲気から、IT業界で“若年寄”としても知られている。
腰が低く、若年寄と呼ばれる宮澤氏は、どのようにして世界を視野に入れた最先端のIT関連サービスを生み出してきたのか。その強さの秘密に迫ります。
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
宮澤弦(みやざわ・げん)氏:1982年北海道生まれ。東京大学卒。学生時代に起業し、大学卒業の直後にシリウステクノロジーズを設立。同社代表取締役社長に就任。趣味は読書で、『SNSビジネスガイド』、『Mobile 2.0』、『儲かるお店のネットエリア広告活用術』などの著書もある。
僕は1982年に札幌で生まれ、18歳まで札幌で育ちました。4人家族なのですが、僕以外は両親も姉もピアニストかピアノ教師というとても変わった家庭で幼少期を過しました。
親としてはピアニストになってもらいたかったのでしょうね。3歳からピアノをやっていましたが、ピアノは一発勝負ですし、人前で弾くということにはとても緊張し、コンクールで出場しても思ったように弾けなかったんです。ピアノの英才教育も受けていましたが、全く才能がなかったんですね。
幸い、学校のテストの点数は良かったので、ピアノをやめて勉学の道に進もうと決めたのが10歳の頃でした。
小学校4年の後半には辞めているのですが、それまでは学校から帰ってくるとずっとピアノづけでしたね。
父の運営する音楽学校と自宅が併設されていたので、建物中から音楽が聞こえてきました。ピアノが20台以上ある環境でしたから、大学受験の時は集中できなくて悲惨でしたけどね(笑)
ピアニストの子供として生まれ、3歳から続けていたピアノをやめたので、親には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。
中学校からは札幌市内の私立北嶺中・高等学校という男子校に進学しました。札幌市は広いんですよ。温泉で有名な定山渓も市内ですし、この北嶺という学校も札幌市に属しながら、隣でクロスカントリーのワールドカップが開催される程の山中にあるんです。グラウンドで蛇に手を噛まれたということで全国的なニュースになったり、学園祭の時にゴミ箱を狐が荒らさないように狐係がいたりと、大自然に囲まれた環境でした。
いえ、そんなこともなかったですよ。男子ばかりで山の中ですから、非常に活発でした。
学校の裏山にスコップで穴掘って秘密基地をつくったり(その後先生に見つかってひどく怒られて埋めましたが)、雪の積もった崖の上からみんなでソリで滑って遊んだり。持て余したエネルギーをすべて大自然にぶつけていましたね。雪が積もると校舎の2階からジャンプとかもしていました。
こうしたことを、みんなを集めてやるのが好きでしたね。。。
小学校の後半にはAppleが家にありましたし、中学の頃からは周りはポケベルやPHSを持ち始めてましたよね。中学3年の頃にアメリカにホームステイをした頃には、あちらの学生に普通にメールアドレスの交換を求められましたから、インターネットも一般に普及してきた時代ですよね。僕は当時まだ個人のメールアドレスを持っていなかったので、アメリカは随分進んでいるんだなぁ、と思ったものです。
ヨーロッパに行く機会が多かったですね。クラシックが盛んなオーストリア、ドイツ、フランス、はたまたチェコやユーゴスラビアなど東欧にも結構行きました。行く国は、クラシックが盛んかどうかで決められてましたので。
まだ小さかったので、ちょっと苦痛だった印象がありますね。
芸術を巡る旅なので、親は演奏会やオペラ・美術館に喜んで行きますが、僕は咳払いも緊張する程じっとしていないといけないじゃないですか(笑)。子供が美術館でじっとしているのは厳しいですよね。
僕は東京で色々な方々にお会いしていますが、父ほど良い意味で個性の強い人を見たことがないですね。なかなか表現するのが難しいですが、音楽に対して極めて純粋で、心が広く、大概のことは受け止めてくれる人です。
逆に母親は父親の補整役でして、ちゃんとした人です。
姉は僕と違って真面目にピアノを続けまして、今はプロのピアニストとして活動しています。名前を「むじか」と言うのですが、ラテン語でMusic(音楽)はムジカと発音しますから、海外ではとても覚え易い名前です。日本で付けた名前としてはかなり珍しいと思いますが、父が親族の猛反対を押し切ってつけました(笑)
ちなみに、僕の弦という名前は、弦楽器からきています。残念ながら、僕は弦楽器を弾けませんが、姉のように変わった名前にされなくて良かったです(笑)
そこが、僕の人生観にとって非常に大きく影響していますね。父は型破りだけど、いつも人生の本質を語ってくれました。それは、「自分が楽しめることを全力でやり、天職だと思って死ぬまで楽しみ続ける」ということ。社会的に役立つことであれば、やっている本人が楽しいと思う事を全力でやるということがむしろ重要だと常々言われていました。もちろん、今は会社としてやっていますので、楽しいだけではなくきちんと利益を生み出す事業を作っていかなくてはなりませんが、その過程を楽しんでいます。
ですから、「大学に行って就職をする」という暗黙のルールに悩んでいた時も、「果たしてこれは自分が全力を注いで夢中で楽しめることなのか?」と自ら問いかけ、その結果として、今この仕事をしているわけですね。
「父は型破りだけど、いつも人生の本質を語ってくれました。それは自分が楽しめることを全力でやり、天職だと思って死ぬまで楽しみ続ける――ということ。社会的に役立つことであれば、やっている本人が何より楽しいと思うことを全力でやるか否かが重要だと言われ続けました」
ホームステイから戻ってきてからは、貪るようにシリコンバレーの本を読む時期がありました。IT業界の起業家の生き方の本などを読むうちに、「音楽家の生き方」と「新たなサービスを世に出し、全力で楽しんで仕事をするという起業家の生き方」に相通じるものがあり、「起業家人生」というものに非常に興味を持ち始めました。
東京大学の理系の一類・二類というのは、入学が決定してから何をやるかを決めるんですよ。2000年頃はバイオが世の中の注目を集めていましたし、生物に関する興味も個人的に高まっていたので、理科二類(生物専攻)に入りました。
僕が札幌から東京に出てきた2000年の春の段階で、既にITバブルは崩壊していました。当時の論調としてはもう「ITは終わった」感でいっぱいでしたね。
しかし、僕にはITだと若くてもやりたいことがすぐに手がけられることや、まだまだ成長する可能性が感じられて、非常に興味があったんです。小さい頃から接していましたし。ですから、入学後は、いつもビジネスのアイディアをノートに書き残し、時間を見つけては、経済学部やMOT(技術経営)の授業をもぐって受けて、事業に役立つであろう知識を吸収していました。
まず、オンラインでのパブリッシング(出版)をやり始めました。とにかく、友人と僕はやりたいことをやる環境・情熱をぶつける先が欲しかったので机を2つだけ借りて始めました。
実験も結構ありましたね。時代が時代ですから、携帯やメールを駆使してやり取りできるので、何とか両立できましたが、そういったツールがなかったら両立は困難だったと思います。あと、結構睡眠時間を削っていましたので、よく扁桃腺が腫れて熱を出してましたね。
色々な企業がサービスを提供し、既に株式上場をしてさらなる成長をしているという中、それらの会社は僕達にとっては別世界の方々でしね。実際にお会いしたこともなかったですので、あの人たちは、遠いインターネットの人達(笑)。僕らは僕らでただ「今この事業をやらないとヤバい」というとりつかれたような思いだけでしたね。
確認株式会社化制度(資本金1円で株式会社を設立でき、設立から5年以内に資本金を1000万円に増資する)がちょうど出来た頃でしたので、有限会社ではなく株式会社として立ち上げることができました。
会社の事業ドメインは、主に携帯事業を中心にしてゆくこととしました。携帯電話やPHSは中学の頃からありましたし、僕は完全にモバイル世代ですから、今後のモバイル事業に可能性を賭けたかったんです。
最初のメンバーは5人程。創業メンバーがやっていた会社の社員を中心に集ってくれたメンバーです。
最初はWEB/モバイルの制作で1年。2004年頃はSNSの開発が始まった頃でしたから、その流れでSNSをさまざまな会社で構築させてもらいました。2004年はIT企業もサービスもたくさんありましたし、僕らは完璧に後発ですからその中でも輝けるサービスをやりたいという思いから、「輝く星=シリウス」ということで命名しました。
ただ、Siriusという名前はすでに登録されていたし、僕達はサイバーの世界で活躍しようとSを“C”にしてCiriusという名前にしたんです。
一番重要なのは社長である僕自身が「優秀な人に来てもらいたいと強く思う」ことではないでしょうか。自分にないものを持った、あるいは今いる社員にないものを持った優秀な人と一緒に働きたいですね。後は、そういう方々が一緒に働きたいと思ってくれるような会社としての使命が必要だと思っています。「自分たちのサービスで世の中を便利にするんだ!」というような使命ですね。
僕は、学生時代に起業しているので他の会社で働いた経験もなければ、知識も弱いと思っています。ですから、周りを支えてくれる人々は優秀でなければこの会社のためにならないし、サービスも普及してゆかないと思っています。自分にない経験・バックグラウンドを持っている人々を積極的に採用し、活用して行かないと、「宮澤の知っていることだけがこの会社の価値」ということになってしまいますから。それだと、ゼロに近しいでしょ(笑)
ですから、シリウスのボードメンバーやマネージャー陣は年上で、経験豊富なメンバーばかりです。同世代の似た者同士で固めても、会社のためにはなりませんしね。
今も日々模索中ですが、5人から10人,30人と大きくなって行く中で、社員が出すアラートやちょっとした変化に気づけなくなる時期があり、結果、社員を傷つけてしまうこともありました。今ではだいぶ敏感になりましたが。今でも充分には出来ていないと思いますが、社内のコミュニケーションは非常に重要だと思っています。
社員は社長が何をしたいのか、どこへ進もうとしているのかを知りたいと思うんですよね。ですから、まず僕がどこへ進もうと考えているのかをシェアすることから始めています。特に、メールではなく口で発現することが重要だと思います。相手に何かを伝えるには、「波長」のある形式が良いと思います。声とか絵とか。白黒のテキストのメールだと、波長がほとんどないので、なかなか相手の心には伝わらないですね。もっとも、僕自身メールで伝えることが多くて、先日うちの役員に注意されたところです(笑)
コンプレックスというよりも現実ですからね(笑)。僕は悩むのが嫌いなんです。悩んでいても前には進めないですから、悩むよりは考えるようにしています。この会社を成長させるのには、経験豊かな人が絶対的に必要ですから、優秀な人材を求めるというのも当然のことですしね。
まずはこの会社の目指す方向に共感してもらえることですよね。僕らの夢をざっくり言うと、「独自性のあるITサービスで、世の中を便利にしてゆくこと。そしてそれを世界の一人でも多くの人に使ってもらえるようにすること」です。その夢に共感でき、その夢に向かって持ってる価値をぶつけ合える人でしょうか。後は、困難にぶつかった時に、自分を最優先に考える人よりは、まず組織を考えてくれる人と仕事をしたいと思います。
まず、ラボがある意義ですが、IT業界は変化が早いですので、常に新しいことを試みていかないと、次に何が流行るかわからないですね。ですので、1歩先を行く取り組みを意図的に行うための仕組みがラボです。後はエンジニアは大きく2つにタイプに分かれます。ある程度決まった作業をきっちりこなすことで価値を生み出す人と、自分で考えて勝手に価値を生み出す人。どちらかと言うと後者の人たちを中心に、ラボに所属してもらって次に来るサービス開発に取り組んでもらっています。
「僕は学生時代に起業しているので、他の会社で働いた経験もなければ、知識も弱いと思っています。だから、ボードメンバーやマネージャー陣は年上で、経験豊富なメンバーばかりです。自分にない経験・バックグラウンドを持っている人々を積極的に採用し、活用して行かないと、『宮澤の知っていることだけがこの会社の価値』ということになってしまいます。それだと、ゼロに近しいでしょ」
今後は、位置情報サービス「アドローカル」の技術を日本はもちろんのこと、海外にも展開して行きたいですね。人々の行動を変え、誰かを便利にするような広告プラットフォームを広げていきたいと思っています。後は、新規事業もどんどんやっていきたいですね。
2年ほど前に『Mobile2.0』という本を書きましたね。実は、3月13日に「儲かるお店のネットエリア広告活用術」という本を出版しました。これは地域広告を紙や電話帳だけでなく、ネットにも出したらこんなにお客さんが来ますよ、というような広告主視点からの話ですね。地域で店舗をやっている人が、今までの紙媒体以外にも、若者などにネットや携帯を通じて情報を届けたいという場合の新たな可能性について書いています。
影響を受けたという意味では、まずは先ほども出ましたが、父でしょうか。そして、京セラの稲森和夫さん。「従業員を大切にする」という考え方とその実績に経営者としてとても共感し、尊敬しています。
趣味は読書ですね。多ジャンルを読みますが、西郷隆盛や吉田松陰に関する本は、心の支えになっています。
また、美味しい物を食べることがとにかく大好きです。「歩く“食べログ”」と社員から冷やかされています。Amazonの検索で”寿司”と入れて出てくる本は全部持っていますよ(笑)。
そして、子育て。日曜日しか出来ていないのですが、子供には色々な気づきをもらっています。
22歳の創業の時に大学の同級生と結婚しました。22歳は自分史に残る程大変な年でした。大学の卒業論文に結婚、起業に子供の誕生。家にも会社にもお金がないというような大変な日々でした。逆に当時を乗り越えたので、どんなに苦しくても「あの時ほどじゃないな」という感覚はあります。
慣れるとスーツほど楽な物はないと思います(笑)。設立当初は22歳だったので、身だしなみはしっかりしなければという意識がありました。22歳の社長がIT系っぽいラフな格好をして営業に行っても、相手にされないんじゃないかと思ったんですよね。社名も知られていませんし。きちんと会社を受け止めてもらえるようにとスーツばかりを着ていたら、家にスーツしかなくなってしまったんですよ(笑)
さらに時代遅れの服を全部捨てられてしまい、残ったのがスーツのみというような状況です。白いシャツに関しては、ネクタイに合わせやすいというのと、近所のクリーニング屋は色シャツだと少し料金が高いという懐事情もあります(笑)
1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。
ブログ:「Edokko in San Francisco 2007」
趣味:タップダンス、ビリヤード、会話、旅、スペイン語
特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m
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