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アントレプレナーの軌跡

2006年9月 4日 13時30分

サイボウズ創業者の高須賀氏が見果てぬ世界一への夢:前編

構成:別井貴志(編集部)

 グループウェアを核にベンチャー企業として急成長してきたサイボウズ。東証マザーズ上場に続き、当時、設立からの最短記録で東証2部上場を果たし、2006年7月3日には創業から約9年で東証1部上場となった。

 このサイボウズは、高須賀宣氏が松下電工を退社して仲間3人と1997年8月に創業した。順調に成長を遂げ、東証一部にまでなったわけだが、サイボウズの会長に就任することになっていた高須賀氏は、これを直前に突然撤回して渡米してしまった。

 米国では、何度も何度も起業する「シリアル・アントレプレナー」が多いが、日本ではまだまだこうした動きは少ない。現在、高須賀氏は米国で「LUNARR」という会社を新たに立ち上げて、新ビジネスを展開しようとしている。サイボウズ創業者として成長した企業をなぜ去る決断をしたのか、なぜ米国で新たに起業したのか。高須賀氏に、サイボウズを創業したときの話から、現在の新会社立ち上げまでの軌跡を伺った。

小池:起業家にはいろいろな歩みがあって、アメリカでは、シリアル・アントレプレナーといって、何度も何度も起業する人たちも多いんだけど、日本ではまだまだ少ないんだよね。

 日本では起業して、投資家から投資を受けると「成功するまで一生やりなさい」みたいなプレッシャーがあり、シリアル・アントレプレナーが生まれにくい環境もある。僕自身も、サラリーマン時代に自分で企画提案して設立した米国法人をMBO(マネジメント・バイアウト)して独立し、その後、日米で多くのベンチャーを立ち上げ・サポートしてきた経験がありますが、高須賀さんも自ら創業し成長させたサイボウズを引退し、次のステージに向かって新たな起業にチャレンジしている。基本的に僕も似たような歩みがあるんですが、その辺を対談形式でインタビューさせてもらいたいなと思っています。

 実は、僕はすごく物持ちがよくて、アメリカにいた時でも、日本でも、僕は実際にお話しを聞いたビジネスプランの資料って、ほとんど全部取ってあるんですよ。それで、サイボウズさんのもすごく印象に残っていたので大事に取ってあるんです。ほら、それがこれです。

高須賀:えっ、懐かしいな。まずい展開ですね(笑)。

小池:いや、まずくないよ、全然まずくない。すごく懐かしくてね。

高須賀:やばい! 何が出てくるんだろう。

小池:僕がアメリカにいた頃お会いしたのを覚えていますか。このビジネスプランを作成して1年目ぐらいのときかな。1998年の。これを見ると、まだ住所が愛媛県松山市の時だね。

高須賀:うわっ。このビジネスプランはちょっと恥ずかしい写真みたいできついですね。サイボウズを始めてちょうど1年目ですね。

小池:僕、すごく印象に残っているんですよ。たしか、最初は松下電工に就職したんですよね。そして、僕自身がアメリカで好きなことをやっていたから、うらやましがって。自分自身も企業内で新しい事業をやろうとしているというような話をしていたと思いますが……。

高須賀宣氏 高須賀宣(たかすか・とおる)-- 1966年愛媛県生まれ。1990年に広島工業大学工学部経営工学科を卒業後、同年に松下電工入社、情報システム部門(ISセンター)情報配線事業推進部でネットワークを担当する。1996年にヴイ・インターネットオペレーションズ株式会社(松下電工グループ子会社)を設立し、取締役副社長に就任。1997年にはサイボウズ社設立、代表取締役社長に就任。2000年にはサイボウズ社が東証マザーズに上場、2002年には東証2部上場。2005年にサイボウズ社取締役を退任し、2006年にLUNARR,Inc.を設立、President&CEOに就任。

高須賀:松下電工の中に社内ベンチャー制度というものがありまして、その制度を使ってコンピュータのソフトウェア会社を作ったんです。それで、若いということもあって1年間副社長をやらせていただきました。そのうちに、多分小池さんと同じような感じかもしれませんが、僕の場合はその社内ベンチャー会社とは違う商売、まあサイボウズなんですが、自分たちだけでやったほうがうまくいきそうだなということで、(松下電工を)辞めちゃったんですよ。

小池:ですよね。すごく僕は印象に残っていて憶えているんです。製品はある程度できていましたよね。

高須賀:ありましたね。ただ、“売り物”と言えるほどのものじゃなかったですけど。

小池:売り方をどうしようかということをご相談されて、何かいろいろアドバイスさせていただいたような覚えがあるんですが、そのときに投資していれば……。

高須賀:やっぱり最初の時点で投資する人はいないですよね、きっと。そう僕は思います。

小池:僕はシード段階でリスクを取って投資しますが、アメリカにいたのでサポートの観点から投資できませんでした。まあ、そんな思い出があるんですが、改めてお聞きすると、そもそもサイボウズを設立しようとしたきっかけは何だったんでしょうか。先程の社内ベンチャー制度がどういうものだったかも含めてお聞かせいただけますか。

高須賀:私はもともとコンピュータの技術者だったんです。偉そうに自慢をしますと、松下電工ではネットワーク技術者としては若くしてトップだったんです。それが幸いに認められて、ある大がかりなプロジェクトに入らないかという話があったんです。簡単に言うと、役員やボードメンバーの意志決定のスピードと精度を上げるという壮大なプロジェクトでした。そこで、各部署から本当の意味でのエースを集めて……。

小池:なるほど。日常のプロセスをちゃんとロジカルにやりましょうというプロジェクトで、エリートが集められたのですね。

高須賀:はい。それで、そのプロジェクトとしてコンピュータシステムを作ることになって、僕に白羽の矢が立ったんです。その人たちとやってプロジェクトは見事に成功して。それが僕にはすごい転機になったんです。そのときに、事業や経営というものの切り口を初めて知りました。僕はただの技術バカで、技術から離れるのはすごい恐怖心があったんですが、このプロジェクトの経験を通して経営や事業がすごくおもしろいと思うようになりました。

サイボウズの事業計画書を見ながら対談

小池:それは何年頃の話ですか。

高須賀:1995年です。プロジェクトが起こったのは1994年ですね。その時に初めて、多分、日本の中でも珍しいと思いますが、大企業でウェブを使った意志決定支援システムを作ったんです。

小池:それは早いですね。

高須賀:それは多分すごく早かったと思います。その経験が自分にとってはすごく良くて、自分が持っている技術を事業にすることは大きなチャンスがあると思って、最初、(松下電工の)社長に「僕に事業部を作らせてください」という話を提案しました。しかし、たまたまそのときに「社内ベンチャー制度ができるから、いろいろなやり方はあるけど、それをやったほうがスムーズやで」と言われて、「じゃあ社内ベンチャー制度で会社をつくります」ということで始めました。

小池:普通に考えると松下電工ぐらいの大会社で、なおかつ1995年というと高須賀さんがおいくつだったかわかりませんが、まだまだ、偉い人に直接話も聞いてもらえなかったんじゃないですか。

高須賀:年齢は二十歳代の若造ですよね。

小池:まあ僕もそんなことをやってきましたけど、社長に直接事業部を作りたいという提案を言うこと自体が珍しい時代、普通はそういうチャンスすらない時代でしたね。

高須賀:やっぱり、ちょっとアウトローな人間だったですね。だから、僕には守るものがないと常に思っていたので、上席とか何とかいうのもまったくストレートになんでも、かくあるべきと進言したし、それが一番自分にとっての仕事人としてのキャリアにプラスだと思っていました。

高須賀宣氏

 もともと僕というのは、学校もいい学校を出ていないんです。だから守るものがないので、あとはやるだけだったんです。何かをやっていくだけ。そこに関してはすごく貪欲でしたね。とにかく松下電工のためになる仕事をやるためのプロフェッショナルを身につけなければと必死で、そのためには新しいコンピュータの事業を、「松下電工の全体を考えてもプラスになるから、やらせてほしい」とお願いしました。

小池聡氏

小池:なるほど。ちょっと前後してしまうんですが、なぜ松下電工に就職したんですか。あるいはその前の学生時代はどういう自分になりたいと思っていて、なぜ松下電工に就職したんですか。

高須賀:あんまりしゃべりたくないところもあるんですが、僕は中学、高校と一般的に言うと不良と言われている部類の人間で、ほんとうに素行が悪かったんです。ほとんど勉強した記憶がないんです。もっと遡ると、小学校の低学年ぐらいから入るのすら難しい進学塾とかに行かされて、その反動で勉強なんてばからしいと思うようになってしまって、それから勉強しなくなったんです。

小池:でもね、これはオフレコというか変な話ですが、今ベンチャー界でこれぞっていう人たちは元不良だったりしますよ。

高須賀:ほんとですか。

小池:ええ、そうですよ。

高須賀:でも、結構そういうやつのほうが大人になると真面目になっているんですよ(笑)。高校時代に僕は家内と知り合って、彼女はすごく保守的で勉強ができたんですね。彼女が大学に行くから大学に行こうとさえ思って、一浪して、そこで初めて勉強したものですから、なかなか……。それでも入れてくれる学校がありまして行きました。私の父親と母親って松下出身なんですが、子どもの頃から、松下のいろいろな哲学や価値観を繰り返し教えられてきました。

 私が就職したのは1990年なんですが、完全に売り手市場だったんです。そうじゃなかったら、私は松下電工に入れなかったと思うんですが、そういう運もあって就職したという経緯なんですね。

小池:もともとサラリーマンになろうと思っていたわけじゃないでしょう? その辺はあまり考えていなかったですか。

高須賀:僕はあまり考えていなくて、「一日一日が楽しければいいや」と思っていたんです。ただし、大学4年のときに研究室に入ってから、コンピュータが好きになっちゃったんです。コンピュータがおもしろくなってしまって、これをなりわいにして生きていくのが楽しいなと。売り手市場だったものですから、「できるだけ大きい会社に入ったほうがいいよ」ということをみんなから言われて、父親の強い勧めもあって、じゃあ大企業に行くんだったら松下だということになったんです。

小池:なるほど。それで社内プロジェクトに選ばれて、そのあとに社内ベンチャー制度を活用したんですね。

高須賀:社内ベンチャー制度の事業というのは、いわゆるシステムインテグレーターなんです。受託開発なんです。今の日本のソフトウエア産業の主流ですよね。それをやっていたんですが、単刀直入に言って僕にとってこの事業はおもしろくなかった。将来空洞化を起こして厳しくなるだろうというのと、「人×いくら」でレバレッジがきかない商売だって思ったんです。

小池:スケーラビリティもないしね。

高須賀:おっしゃるとおりです。1件1件お客さんに喜んでもらうのは、それはそれですごくうれしいし、楽しい仕事なんですが、ビジネスという視点で見たときに僕はおもしろみを感じられなかったんです。

 やっぱり、僕は松下幸之助さんの影響をすごく受けていて、事業というものはどんどん拡大していくことにすごく意味があると教わっているので、そのギャップを感じて、もんもんと過ごしました。そして、この事業はちょっと問題があるなといろいろ考えるうちに、今のサイボウズの事業を思いついたのです。

小池:じゃあ、サラリーマン時代にサイボウズの事業を思いついたわけですか。

高須賀:はい。グループウェアを作ろうとは思っていなかったんですが、ウェブベースのアプリケーションとインターネットによりダウンロードするかたちのダイレクト販売というのだけがコンセプトとして存在していて、僕の中ではそこにすごくオポチュニティを感じていました。そして、実は実際に松下電工の役員会でも僕はそのコンセプトを話しているんですね。

小池:そのビジネスアイデアについて?

高須賀:はい。ここにはすごくオポチュニティがあると。やらせてほしいという話をしたところ、「いいよ」と言われたんです。普通は「だめよ」と言われて辞める人が多いんですが、「いいよ」と言われたその雰囲気が嫌だったんです。僕にとっては感じが悪かったんですね。

小池:もうちょっと具体的にいうとどういうことでしょう。

高須賀:まあ、今現在やろうとしているビジネスもそうなんですが、僕にはある程度バラ色の未来が見えているんですね。SFの世界とまでは言いませんが、こうなるかもしれないという成功イメージが自分の中では明確にあるんです。でも、こうなったらこんなにエキサイティングだということを坦々とうまい具合には語れないんです。それでも、そのイメージを共有できないと、絶対に成功確率は下がるし。

小池:おっしゃるとおり!

高須賀:喜びもそうでもないなと。苦難がありますから、明確なイメージがあるからこそ現実化するというか、具現化していくと。そこで、これは多分毎回コンセンサス、説明を求められるだろうなと。そして、逆にこれはすごい危機だと。僕が新しいオポチュニティを、もう手の中にあると思っているものを、毎回のらりくらり説明してイメージを共有しながらやっていたら、手からこぼれまくって、これはかなわんなと思って。確かに自分でゼロから始めるのはすごくリスクがありますが、サラリーマンでやるのと天秤にかけて、絶対に自分でやったほうが成功確率が高まると思って辞めたんです。

小池:なるほどね。今のポイントは、僕が投資をするかどうかというところのデシジョンの中で、1つ重きを置いている点と一緒ですね。創業者あるいはアイデアを出した人が、そのプランにどれだけ自己暗示にかかって惚れ込んでいるか、熱狂を持ってやろうとしているかというポイントなんだけど。

高須賀:そのとおり! もうひざを打つんですよ。「ここやったか!」と。まあ実現できるかどうかは別ですよ。でも、その時点ではもう既に見えているんですよね。で、それをどれだけ語っても共有できないんです。一部の人としか。

小池:それで「いいよ」と言ったけど、いいよと言った会社側の意図はその熱狂を共有して、「これはいけるぞ」という意味で「いいよ」と言ったわけじゃなくて、なんかこう制度の中で「これだったらいいかな」という意味で、「やらせてみたら」ぐらいだったということですか。

高須賀:そう! そうなんです。ある程度僕もがんがんやったし、「若いやつはいろいろ経験させてやったほうがええやろ」みたいな雰囲気ですね。しかも、当時数千万円ぐらいの投資だったんで、松下にとっては小さい投資だったんです。そんなものを、だいたい役員会に持ってくること自体がどうなんだ……みたいな。

小池:でもまだね、その頃は、起業するとか、IPOとかという時代じゃなかったですよね。だから、例えば自分で会社の株式を持ってそれを上場させて……みたいなことよりは、やっぱり自分のビジョンで、自らデシジョンして前に進んでいきたいというようなことの方が強かったんですか。

高須賀宣氏

高須賀:厳密に言うとちょっと違っていて、僕はイメージしている未来の姿、その事業がうまくいっている姿が、実現さえすればどのような道を通るバスでもそれを選択して乗ります。ただ、それを成し遂げる到達点にもっとも近道を通るパスがあれば、僕はナンバー2であろうが、事業部長であろうが、そこの一部署を任されようが別に何でも構わないんです。

小池:なるほど。自分が所有して、自分の会社としてやりたいとかそういうことはなかったわけですね。

高須賀:そういう欲はまったくなかったですね。

小池:とにかく、自分のやりたいことが実現できる最適な道であれば良かったと。

高須賀:はい。そして実現したときには、それに見合うリターンは当然あるというふうに、思っていました。社内ベンチャーでも資金の80%は会社に出してもらいましたけど、20%は自分たちで出していて。

小池:その時に株式を公開してキャピタルゲインを得られるという制度はあったんですか。

高須賀:正当なリターンとして、IPOをして当然キャピタルゲインはわれわれも得るとか、そういうふうに自分自身は思っていました。当時、マーク・アンドリューセンがテレビに出ていたりして、なにかニュースにTシャツ姿で出て、「一夜にして億万長者ですね」みたいな、何か若くて偉そうでもないのに、すごいかっこいいなと思ったんです。

小池:確かに1995年っていうと、僕もずっとアメリカにいましたけど、1993年にモザイクが出て、まだマーク・アンドリーセンが学生でしたよね。それで、1994年にジム・クラークと一緒にネットスケープ社を作って。さらに1995年にはナスダックにIPOをしてる。そこからインターネット系のニューエコノミーというか、その後のバブルというか、そうしたはしりだった。ちょうどその年ですね。

高須賀:あのモザイクが出た瞬間に、「これは日本の版権を得よう」と思ったのですが、そのときは既に富士通さんが取っていました。しかし、当時はポイントキャストというプッシュサービスがあったのを覚えていらっしゃいますか? 僕はすごいインパクトを受けて「これは絶対逃せへん」と思って連絡したんですけど、この時は競り合ったのですが結局ほかに取られちゃいました。あの時、アメリカがいろいろとわきたっていた、すごくエキサイティングな時期で、そこはすごく僕も見ていましたね。

小池:それで、じゃあ自分で作ろうと。とはいっても、資金が要りますよね。あるいは一緒にやる仲間も要りますよね。その辺はどうされたんですか。

高須賀:まず、社内ベンチャーは当時20人ぐらいの会社でしたが、私がやろうとしていた事業をやってみようといって、(松下電工を)辞めて(俺と一緒に)やるやつはいるかと聞いて、即答した2人と一緒にやったんです。それで、資金に関しては、一応当時も(小池さんがいまでも持っている)事業計画は同じもので、キャッシュで4000万ぐらい必要だったんです。用意できた資金はまだ足りなかったので、ベンチャーキャピタルとか銀行とか、すごくあたりましたよ。

(後編に続く・後編ではいよいよ高須賀氏が新たに起業した新会社LUNARRが明かされます。)

小池 聡

iSi電通アメリカ副社長としてGEおよび電通の各種IT、マルチメディア、インターネット・プロジェクトに従事。1997年にiSi電通ホールディングスCFO兼ネットイヤーグループCEOに就任。シリコンアレー、シリコンバレーを中心にネットビジネスのインキュベーションおよびコンサルティング事業を展開。1998年にネットイヤーグループをMBOし独立。1999年に日本法人ネットイヤーグループおよびネットイヤー・ナレッジキャピタル・パートナーズを設立。現在、ネットエイジグループ代表取締役、ネットエイジキャピタルパートナーズ代表取締役社長などを務める。日米IT・投資業界での20年以上の経験を生かしベンチャーの育成に注力。