2008年3月3日 16時20分
こだまん
初期のコンピュータゲーム「インベーダーゲーム」が我が家にやってきた時の衝撃は今でも忘れられない。しかし、筆者が打ってくる球をどうやったら多くすることができるのだろうかと考えたことは、一度もなかった。
コミュニティーエンジンの中嶋謙互さんが初めてインベーダーゲームに触れたのは3歳。いつの日か「敵の弾の数を増やしてみたい」という思いが、99.9%英語で書かれているユーザーマニュアルにあるコマンドを片端から試すようになる。費やした時間は実に3年以上。ついに弾を増やすことに成功した彼はその後、ゲームの世界へと引き込まれて行く。
プログラムを書き続けて約30年。現在はプログラマーではなく、社長業に専念をしているという中嶋さんの強さを支え続けてきた根幹に迫ります。もちろん懐かしいゲームの話題も盛りだくさんです。
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
中嶋謙互(なかじま・けんご)氏:1974年京都生まれ。京都大学農学部卒業。日本最初のMMORPG「Lifestorm」を開発。2000年コミュニティーエンジンを設立し代表取締役CEOに就任、現在に至る。2005年、IPA未踏ソフトウェア創造事業にて「天才プログラマー/スーパークリエーター」認定。
僕は京都の東側の山科というところで生まれて、6歳までそこにいました。京都盆地の隣にある小さい盆地で、ちょうどその間に南禅寺があります。小学校からは滋賀の大津に移りました。琵琶湖には自転車で行ける距離ですね。
地元の人は琵琶湖を“海”と呼んでいますが。高校までは大津で、京都に戻ってきたのは大学から。東京に出てきたのは大学卒業前です。
小さい頃というよりも、高校時代までは一貫してアナーキストでしたね(笑)。
父親がアップル好きで、3歳の時に「Apple2」が家にやってきたんです。 当時は60万円位しましたね。Macintoshの前ですから、マウスはなく、カーソルのようなもので動かしていましたね。そのApple2にベーシックとゲームが2つ入っており、いつもいじっていました。
それは今で言えば「Second Life」を見て「これは何用ですか?」と聞くようなもので、1970年代後半はApple2に皆が想像を膨らませていた時代なんですよ。
キラーアプリはなくても、Apple2は世界中で爆発的に売れました。3歳からインベーダーをやっていたのは覚えていて、5歳くらいでインベーダーゲームを改造しようと思っていましたね。
一番初めにやりたかったことは、インベーダーゲームの敵の弾をもっと多くすることでした。そのためにどうすれば良いかと色々調べましたが、なかなか分かりませんでしたけどね。
Apple2にはぶ厚いユーザーマニュアルがついていて、A4の1枚ペラに日本語で書いてある以外は英語でした。
しかし、3〜5歳の子供にとっては、日本語も英語も関係ないんですよ、どちらで書かれていても分からない。だから全部そのマニュアルに書いてあるコマンドを試していきました。そうすれば、どれかが正解なんです。実際、動くコマンドもありましたしね。
できたのは8歳頃でしたね。でも子供は1つのことに3年位かけるわけですよ。 毎日コツコツと。親はプログラマーではありませんから、何も教えてくれませんからね。
次に触ったのが、富士通の「FM-8」という緑色のディスプレイ付きのマシンでした。ファミコンはまだ登場していません。このFM-8はマニュアルが日本語だったんです。ですから凄く使いやすく、ベーシックでゲームをつくっていました。
そんなものありませんよ(笑)。積み木で遊ぶのと一緒で、いろいろいじっていたらある形になったと。
僕と同じ年代でこの業界で活躍する人の中には、同じような幼少時代をたどっている人も多いと思いますよ。ベーシックとアッセンブリー言語をずっといじっていた人達ですね。
中学に入ると「MSX」が学校にあり、すごくプログラミングしやすいマシンだったので、友人と分担してゲームを作っていましたね。
中学2年にシャープの「X68000」というコンピュータをお年玉をはたいて買いました。25万円くらいでOSはハドソンが提供していました。このX68000で人生が変わった人はかなりいるのではないでしょうか。
ゲームセンターのゲームは家庭用のゲーム機と比べて、明らかにクオリティが高かったですよね。「魔界村」とかアフターバーナーがあった頃、あれだけの高いクオリティは家では絶対にできなかったじゃないですか。しかしX68000はアーケードゲームレベルの高いクオリティのゲームを自宅で作れるという凄いコンピュータでした。
家でゲームばっかりつくっていましたね。高校2年の夏に友達とゲーム会社をつくったんです。法律など知りませんでしたから真似事ですけれど。ただ、これはうまくいかずに1カ月も持たずに崩壊しました(笑)。
そのとき、社長をやっていた「からはん」(コミュニティーエンジン社外取締役のThomas Callaghan氏)は現在、我が社の役員に入ってもらっています。当時は僕が部下だったんですよ。
「Age of Empire」のような戦争シュミレーションです。しかし、なんだかゲームの話ばかりですね(笑)。
母は音楽の教師で、ピアノやリトミック/電子オルガンなどを教える音楽教室の経営者です。僕も子供の頃やっていましたが、先生と喧嘩をしてやめました。言われた通りにするのが嫌だったんですね。
今は色々な方法があるようですが、昔は子供に楽しく教える方法がなかったのでつまらなかった。母は今でも大津でその教室を経営しています。
父親は着物をつくっていました。着物には、織屋と染屋、小売りに問屋とありますが、父は着物を染めて問屋に卸すという仕事をしていました。ゲーム業界で例えると問屋がプロジェクトファイナンスをして、染屋が受託開発の開発会社のような役割です。今は通販の仕事等をしていますが。
「大学でインターネットに触った瞬間に『これで世界が変わる』と思いました。もう1つの衝撃はオープンソース。今まで10万円以上していた開発ソフトが、オンライン上にフリーで公開されているわけです。もうこの環境下になれば、ボトルネックは自分だけなんですよ。自分の能力だけしか限界はないんですから」
小さい頃から父は傍らで見ている僕に、「この産業は20年後に厳しくなる」とよく言っていましたから、目指そうという気はおきませんでしたね。妹は2人いますが、2人とも音楽の道へ進んでいます。
京都大学の「京大マイコンクラブ(KMC)」に入りたかったんです。KMCといえば、その頃はサークルレベルでオープンソースのプロジェジェクト、例えばルーターのルーティングのアルゴリズムのライブラリを作ったり、OSをつくったりするような人間がゴロゴロいるようなサークルだったんです。それを仕事にしている人もたくさんいます。
このサークルに入るためには、京大に行くしかないと思ったんです。しかし、プログラミングばかりをして、勉学に関しては頭が良くなかったので、1年間浪人をしてしまいました。
そこにいったらプログラミングができるんですよ。実際、高校卒業前からKMCに見学にいっていました。「合格したらきます」という状況です。
何故そのサークルが盛り上がったかというと常時接続のインターネット環境は大学にしかなかった。そしてそのサークルにいけば、Sunのワークステーションやイーサネットなど凄い環境が整っていたわけです。今ではノートPCもネットワーク環境も整って、自宅でいくらでもできますが。
大学には7年もいました。ぜんぜん単位とれなくて。。。ただ、その間にゲームを作ったり、本を書いたり。当然スキルアップしますし、環境も整っていますから、オープンソースのコンパイラーで本格的なゲームが作れるんですよ。
アルバイトも初めて、バイト先では「Lifestorm」というオンラインゲームを作っていました。うちの社史にはその辺りから載っています。
Lifestormは世界で最初につくられたJAVAベースのMMORPGですね。
「Ultima Online」より若干速いです。ここで生まれた技術は、いまでもコアの部分にコンセプトがのこっています。
大学の卒業論文は、山林の経済効果を最大にするためのシミュレータでしたし。まぁ結局はプログラミングだったんですけど(笑)。評価は高かったですよ。
その時に思ったのは、農業にコンピュータを入れるとめちゃくちゃ改善できるということ。友人がやっているのですが、イスラエルの産品でトマトがあります。トマトは、雨がいらなく地面にパイプをいれて点滴で根っこに直接水をあげればいいんです。必要な分だけ水をあげれば、上から水をあげるよりも100分の1の水量で良いわけですから砂漠でも育つんですよ。
実際、イスラエルでは「そろそろ収穫の頃だから」という指示がサーバから人間に発信されて、それから収穫にいくというシステムに近づいています。
このように日本の農業もITを上手に活用することによって、食料自給率を上げることが可能だと信じていますし、実際そうなると思っています。
僕にとっては、作る事自体は面白くないんですよ。プログラムは面倒くさいですから。こういうゲームが欲しいと思った時にすぐにある方がよっぽどいいですよね。しかし作ってみると、実際そのゲーム上で、知らない人と会話し一緒に戦ったりしている中で、知らない人のスーパープレイが出たりするんです。なんだか人間の限界が引き上げられた感じがするじゃないですか。これは面白いですよね。
コミュニティーエンジンが無料でやっている「gumonji」というゲームは今までなかったコンピュータのシステムをつくって、ユーザーがその中で今までに想像もつかなかったような空間を個人個人が作っています。それをみるのは面白いですし、やりがいがありますよね。ニコニコ動画のように今までにないユーザーインターフェースをつくれば、今までにないものが生まれてくる。僕はそれがやりたかった。
Lifestormは日本システムサプライという会社でアルバイトをしていた1997年に作ったゲームで、このゲームのプレイヤーの中にエニックスの斉藤陽介プロデューサーがいらしたんです。そして、これを商用化しないかということでわざわざ大阪に来られました。
彼の上司が本多圭司さん(当時エニックス経営企画部長)でしたから、その辺りから今の話につながります。日本システムサプライと斉藤さんとの打ち合わせがありまして、その打ち合わせには僕も作り手として参加しました。この日本システムサプライは、その後潰れてしまい、多くの社員が別のゲーム会社に移りました。
その後、僕はアバターをつかった「アバターウェア」という会社を日本システムサプライの社長と作ったりしていたのですが、エニックスの斉藤プロデューサーに今後のことについて相談をもちかけると、「では本多と福嶋に会いましょう」ということになり、本多経営企画部長と福嶋康博会長とお会いする機会を頂きました。その時に福嶋氏にされた質問は、「今何歳?英語はできるか?いくら必要か?」という3つでした。
当時僕は25歳で英語はそこそこできたので、ざっくりとした必要なお金を提示したところ、半分とちょっと出資いただくことで話がまとまったんです。
MMORPGには無限の可能性を感じていました。その頃からということではなくて、大学でインターネットに触った瞬間に「これで世界が変わる」と思っていましたから。
もう1つは“オープンソース”ですね。今まで10万円以上していたものが、オンライン上にフリーで公開されている。この環境下になれば、ボトルネックは自分だけなんですよ。自分の能力だけしか限界はないんですから。インターネットでMMORPGをトコトンやってみようと思いでこの会社を立ち上げるに至ったんです。
名前は他の案と比べたわけではなく、これしかなかったんですよ。アバターソフトウェアという会社にいた時に、アバターだけでは少し狭いなと思い、「インタラクティブソリューション」という社名が出てきましたが、これだとあまり面白くない。その次に出てきたのが、「コミュニティーエンジン」だったということですね。
ゲームは一過性のものであって、それがネットワークと融合して進化した先にある何かに興味があるから、ゲームを会社名に含めたくなかったんです。
最初は2人で始めました。僕ともう1人ですが、その“もう1人”というのは、「Lifestormを作ったのは誰だ?」と自分で調べて大阪まできた人です。いわゆる帰りの電車賃を持たずに来る人ですね。ゲーム業界ではこういう人はけっこう多いんですよ。やってきた次の日から、会社に住んでいましたね。
2005年までは12人という規模で成長をしてきましたが、2005年に限界を感じました。「チームワークを真剣に考えなければダメ」という気づきです。
そして、「自分では絶対にできない仕事をやれる人がいっぱいいるんだ」ということへの気づき。デザインや僕の得意分野であるプログラミングの分野でも全く違うバックグラウンドやスキルを持っている人間がいて、彼らの才能が合わさらないとできないことがたくさんあるということが分かりました。
また、2005年に自分のリードプログラマーとしての限界を感じ、2005年以降からは社長業に専念することにしました。
「gumonji」の開発プロジェクトをやっていたときに、凄いソフトウェアだったんですが、全然儲からなかったんですね。プロジェクトとファイナンスの増資もストップしてしまい、解散するかしないかというところまで追いつめられました。
その時に、解散せずにチームワークで改善できるのではないかと仕切り直しをしたのが2005年です。2000年から“やろうと思ってきた事”を一通りやってきて、結果、儲からなかったという現実を突きつけられた年でした。
「ゲームは長い歴史がないと作れないと思います。その点、日本にはノウハウも歴史もありますから、世界をリードして、僕たちも世界を驚かせるようなゲームそして全く新しいソフトウェアづくりに携わって行きたいと思います」
正直、お金にはなっていませんでしたが、それまでやってきた成果物、例えば「gumonji」などは、業界でも非常に高い評価をいただいていたので、比較的仕事はとりやすかったですよ。
それを教えてもらいたいんですが、ロールモデルがないんですよね。つまり、日本でソフトウェアの特殊なスキルをベースに起業して、飛躍的に発展させたプログラマーの社長がいないんですよ。本田技研工業の本田宗一郎氏のソフトウェア業界版のような人がいないんですよね。
飛躍的な発展というのはこれからですから、すべてが手探りなんですよ。ただ、今までマネタイズできていなかったことから、今度はお金を強く意識するあまり、将来への研究開発への投資がおろそかになっていたというのが、ここ最近の反省ですね。
長時間かかるゲームはあまりやりませんが、時間のかからないゲームはやりますね。WiiFitを家でやりますが、そのソフトの中のジョギングは将来的に大きな可能性持っていると思うんですよね。PSPもやります。
独自のプラットフォームを持っている会社にしたいですね。それはハードウェアでもソフトウェアでも通信インフラでもいいのですが、スクエアエニックスは「プレイオンライン」、タイトーはアーケードを持っているようにグループ会社を見渡すだけでも面白いプラットフォームを持っているんです。我々は全く関係ないものでも何らかのものを生み出したいなと思います。
苦手なことを優先順位が下がりやすいということだとすれば、分かりやすく説明することが苦手かもしれないですね。
苦手なことであり変えられないことだと断定してしまってもいいと思います。自分が出来ないんだから、他の人にお願いするという発想に変わって行きますから。
PSPやニンテンドーDSといった持ち歩ける小さなゲーム機が過去これだけ普及したという事例はありませんし、「100ドルPC」ぐらいの性能を持っているPSPが、ネットワークでつながってPCと同じ機能を持っても良いわけです。ゲーム機が物凄く熱いネット端末になる可能性もあるんですよ。
また、ゲーム全体の売り上げに締める割合が大きいRPGが売れなくなっていると言われているだけで、その他のジャンルのものは成長していると思いますけどね。
仕事でプロダクトのコードを書かないようにしていますが、趣味でプログラミングはしています。今話題の“超整理法”の考え方を取り入れたTo do管理アプリケーションなどは自分で作って実際に使っています。
音楽もよく聞きますね。ジャンルとしてはエレクトリックで、クラークやテレフォン・テルアビブというアーティストが好きです。また、テレビではBS放送のファッション通信をよく見ますね。他の業界のものでもデザイナーやクリエイターの仕事に触れるのは凄く楽しいですから。
そうなんです。2008年4月を予定していますが、親が僕にしてくれたように、インタラクティブな何かを与えてあとはほったらかしが良いかなと思いますね(笑)。
日本の偉人の本はよく読みますよ。ハッカーの世界では、著名なオープンソースを作ってきた人達ですね。不法で侵入するという意味合いで使われることが多い“ハッカー”ですが、ここでは「コンピュータをこよなく使いこなしている人」「コンピュータを使って物凄い速さで問題を解決する人」という意味で、リチャード・ストールマン氏やラリー・ウォール氏ですね。彼らのソースコードを見て影響を受けることが多々あります。ただ、ビジネスのロールモデルにはなりませんけど。
ジェフリー・サックス氏の「貧困の終焉」(早川書房)や山形浩生さんの翻訳する本は結構読みますね。
ロボット本体よりも、彼らを動かすソフトウェアに対する興味ですね。結局はソフトウェアを使って、既存の問題を解決して行きましょうというのが僕が書いた論文のテーマですから。
シリコンバレーにあるMetaplace社のラフ・コスター氏ですね。Second Lifeの次を目指す会社です。僕の苦手な、誰にでもわかりやすくするというのが売りの人ですね。
特に趣味として旅行をするということはありませんね。仕事ではありますが。
ただ、バングラディシュには行ってみたいと思います。あちらでNPOをやっている知人がいまして、現状を伺ったんですが、バングラディシュではインターネットプロバイダーが出てきているんです。人口が1億4000万人以上いるのに、国土が北海道の2倍くらいの広さの平野なんですよ。
物凄い良いWiMAX(ワイマックス)をつかえば、鉄道の線路にいくつか建てるだけで80%以上の人々にネット環境を提供できるらしいんです。興味深いですよね。そうなれば、彼らとネットを通じて仕事ができると思うんです。
ただゲームを作るという観点からみれば、難しいですね。ゲームは長い歴史がないと作れないと思います。その点、日本にはノウハウも歴史もありますから、世界をリードして、僕たちも世界を驚かせるようなゲームそして全く新しいソフトウェアづくりに携わって行きたいと思います。
1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。
ブログ:「Edokko in San Francisco 2007」
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特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m
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