こだまんのふらりBEAT MASTER巡り
こだまん
学生時代はバンドのマネージャー。大学卒業後は大手コンサルティンググループに就職。MBA取得後、しばらく米企業に籍を置き、国内の大企業に入れば会長付でグループの戦略立案を担当した。他にもベンチャーキャピタルやベンチャー企業の役員を務めたり、さらには数々のITに関する本を出版したりとさまざまな顔を持つ本荘事務所の本荘修二さん。
今回は、そんな本荘さんの経歴や人生の分岐点について、事細かく聞いてみました。いくつかの話題に対して深掘りをしようとすれば風のようにかわす話術の本質には、あの有名マンガのキャラクターの存在が!
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
本荘修二(ほんじょう・しゅうじ)氏:東京大学工学部卒業、ペンシルベニア大学経営学修士、早稲田大学学術博士。ボストン・コンサルティング・グループ、米Computer Sciences Corp.、CSK(会長付・グループ戦略室マネジャー)などを歴任。現本荘事務所代表。新事業コンサルティングなどを手がける。埼玉大学客員助教授、経済産業省・産業構造審議会情報サービス・ソフトウェア小委員会委員でもある。
僕が生まれたのは、昭和39年。場所は、衆議院議員の麻生太郎さんゆかりの地であり、嘉穂劇場のある北九州は飯塚市です。39年といえば、炭坑で爆発があり、大勢の人が亡くなり炭坑が衰退した時期です。ここは、黒ダイヤ(石炭)が有名で、ある時期1番日本でお金が集まった場所で、気性が荒い人が多い場所と言えるのではないでしょうか。
その後、三井三池炭坑のお膝元である大牟田市に移りました。ここでの生活における具体的な何かがというわけではありませんが、有形無形にかかわらずさまざまな事象や環境から影響を受けたと思います。
育った環境に良いも悪いもないと思うんですよね。選択の余地はありませんでしたから。
子供の頃は、意味不明に広告紙の裏にお絵描きをしていました。小学校の低学年くらいの話ですかね。根気強く細かい絵を描いてばかりいるので、祖母には「あんたは1時間も2時間も絵ばかり描いて!」とあきれられていましたね。
学問に関しては、授業で教わる事は授業中にすべてマスターするよう努めていました。新聞もよく読んでいましたね。あるとき、新聞の野球欄をみながら、仲間内で次はどっちが勝つか負けるというのを賭けたのですが結果は僕が圧勝。そうすると、逆に自分が虚しくなって「勝ちすぎてはいけないんだ!」と思ったわけですよ。あの気づきは今も覚えていますね。
高校時代、うまくいかなくなると「本荘助けてくれないか?」と頼られることがあり、それを僕がミッションコンプリートをさせるという場面もしばしばありましたね。大人になってから跡づけした考えですが、ベンチャー界隈に軸足をおいてやっている理由の1つかなとも思います。
大学に関しては、親からは九州大学の医学部に行けと言われていましたけど、フナの解剖など嫌いでしたし、数学や物理が得意だったことから東京大学に行きたいと思うようになりました。
九州の島を初めて出たのが、大学受験の時です。飛行機に乗ったのも、この時が最初です。それまでずっと九州から出ていないわけですから、「本当に東京というのはあるのか?」というのがとても疑問でしたね。もしかしたら怪電波にあやつられているのではないかと(笑)。昭和57年2月の話です。
よくほら、田舎者が東京に来ると熱が出ると言いますが、本当に熱が出ましたね。高熱が出て、脱水症状。ご飯が食べられず、病院で点滴をうってフラフラになりながら試験を受けに行きました。
縁の下の力持ちですか?どうでしょうかね。大学の文化祭「駒場祭」の歌合戦では3年連続決勝までいきましたよ。
もちろん、ジャニーズ系ですよね。吉川晃司もありましたね。びっくりしたのは、4年になって駒場から本郷校舎に移っているのに、駒場祭実行委員会から連絡があって「今年も出てくれ」と指名されました。
それを言い出したら、大元は小学生のころですかね。ホームルームで時間があるから何かを歌えと言われた時に歌った歌が「岸壁の母」ですからね(笑)。
1980年代半ばのインディーズ音楽というのは本当にアンダ—グラウンドでした。
ある時、原宿のクロコダイルというライブハウスで先輩に合い、一緒に何かをやろうということでマネージャーやイベント制作をやり出しました。あれは大学1年の途中からでしたが、当時やっと個人用のビデオが発売されたころだったのでビデオを作ったら面白いのではないかという話が出ていました。
それに加えて、音楽雑誌の記事や技術系の記事等も書いていました。その頃にライティングの技術を教わったのがその後の物書きの仕事で非常に役立っていますね。
卒業が見えたころからは、某人気女性歌手の担当をやらないかという誘いがありましたが、知れば知る程、音楽業界は僕が行くところではないという気持ちが強くなっていたので、その道に行くことは辞めました。
「高校時代、うまくいかなくなると『本荘助けてくれないか?』と頼られることがあり、それを僕がミッションコンプリートをさせるという場面もしばしばありましたね。大人になってから跡づけした考えですが、ベンチャー界隈に軸足をおいてやっている理由の1つかなとも思います」
卒業論文が大変だったので、4年の始めでマネージャー業は辞めました。東大の工学部金属工学科は非常に伝統ある学科で、日本三大発明の1つとも言われている三島磁石を発明した三島先生の研究室(当時は梅田教授)ところでしたから、かなり大変だったんですよ。
4年生のある日、教室の黒板にいくつかの会社名が書いてあり、行きたい会社の欄に名前を書いておけということがありました。国を富ませるために、技術力を1社に集中させないように“配給する”という発想だったんですね。非常に合理的でしょ。
では何故行かなかったか?就職について考えていたころ、ある人に「本荘君!日本にとどまっていても面白くないよ」と言われたんです。米国では工学部生がMBAなる経営修士号をガンガンとっていて、非常にバリュ—が上がっていると。では、日本の鉄鋼の会社はどうかというと、技術第1でR&Dが大切という割に社長は法学部出身。その価値を分かる人間がトップにいないという現実に違和感を覚えました。それならば、すんなり就職せずに海外へ行こうと思い、MBAを取るために願書を出してみたわけです。
そうなんです。願書を出してしばらくするとニューヨーク大学から「合格だけど、職業経験が2年必要」と言い渡され、合格をまっていたら就職できないので1年間研究生として学校においてもらいました。
このころから、伊賀か甲賀か分かりませんが忍者のようなあるコンサルタントの手伝いをし始めて、その人を通じてテクノベンチャーのアドバイザーなどをやっていた大江建先生と知り合いました。すると大江先生から「本荘君、暇にしているの?」と言われ、ペンシルバニアのイアン・マクミラン先生のところの学生がアントレプレナーのサーベイをしたいという話がありました。これがきっかけとなって、ベンチャー関連の話に詳しくなっていきました。
また、MBAをとるために職務経験も必要だったところに、大江先生から「ボストンコンサルティンググループ」などコンサルティングの存在を教えてもらい、取り敢えず「104」で調べて「ボストンコンサルティング」とコンタクトを取り、入社試験を受けに行ったんです。すると、先方から「サマージョブに来い」と。「冗談じゃない!もしそれで、却下された場合、自分はどうなるのか?それで失職したらどのように責任とるんだ?」と問いつめたんです。そうしたら、すぐに合格通知がきました(笑)。
ビジネススクールを卒業してすぐに日本に帰ったのでは、米国文化や英語を忘れてしまうという思いから、米国で働くという決断をし、CSCで働きました。しかし、ビザの関係もあって1年半程で日本に戻ってきたんです。1995年の冬ですから、阪神・淡路大震災やオウム事件のあった頃ですね。
帰国してしばらくヒューレット・パッカードに関する本を書いていると、元マッキンゼ—の中川さんから「本荘君、職が決まってないなら手伝ってよ」とCSKの経営企画室に入るという話をもらいました。経営企画室に入り1カ月くらい経ったころに、当時の副社長から「大川社長のところにいくから来て下さい」と言われまして、ついて行くと大川社長直々に「明日からここにこい!」と。
キャピタリストとしての活動もありましたが、つまりはその時その時、大川さんが最も関心が高いこと一切合切です。投資もありましたし、宴会のセットアップもありました。
1998年から元コンパックの村井勝氏と二人でジェネラルアトランティックパートナーズ日本支部を立ち上げ、初期はポートフォリオサポ—トを主なミッションとして活動しました。つまり、海外で投資した企業の日本進出のサポートという内容です。「海外から日本に」というのはしこたまやってきたので、日本の物を海外にというのをやってみたいなという気持ちはありましたよね。
だから、D2E2が海外展開を考えているからという話を村井さんからもらった時は、海外展開ならばやりましょうということでD2E2にジェネラルアトランティックを辞めて行ったわけです。当初、D2E2米国支社長になるという話だけでしたが、言ったら話が違っていました。しかし、村井さんより「まあまあ本荘君」ということで取締役COOになってしまいました(笑)。
2002年にD2E2を辞めてから、本荘事務所でコンサルティングをやっていました。しかし、この本荘事務所の歴史は古く、フリーターの時代(1986年)からあったんですよ。いろいろと仕事をするのに、名刺がないと何かと大変でしょ。だから、本荘事務所は、その時その時で業務内容が変わって行くのです。
本荘事務所でコンサルティングをやっていたときに早稲田大学大学院 アジア太平洋研究科の大江先生から「本荘君、ドクターコースを新しく作るから来てみないか」といわれました。ではと、試しに受けに行っていたら、これが受かっちゃいまして(笑)。2003年4月から2006年9月の間、ドクターコースに入ってしまったわけです。
その通り!大企業のコンサルも忙しくやっていましたよ。時々ベンチャーもやりました。
高校時代もそうだし、インディーズのバンドが僕に頼ってきたのも同じで、精神安定剤みたいなもんじゃないですかね?
これは、あるとき村井さんから電話がかかってきて、「本荘君、今何しているの?1月から戻ってきなさい」という命令で戻りました。それが結構重かった。98年の頃と同様にポ—トフォリオサポ—トをやりながら投資案件を扱い、一方でドクターコースの論文もありましたからね。婚期が伸びた原因の1つだと思います(笑)。
大会社のアドバイザ—などをやっていた時に、経営層とディスカッションすることが多々あって、ウェブに対する考え方がひどいということが分かりました。一方でXSHIBUYA(クロスシブヤ)やウェブのコミュニティなどもやっていたので、クリエイタ—と大企業の間に大きな断層があると強く思うところがあって出版しました。
これは2005年夏からの東京商工会議所主催の研究会で生まれたもので、ngi groupの小池聡さんから初夏に「本荘君。今日暇?」と電話がかかってきました。色々と会話をした後に、「あとよろしく」と(笑)。
ITテクノロジーとクリエイターのマッチングが研究のテ—マだったので、結局は真面目に取組んでいましたね。報告書で終わらせずLLP(有限責任事業組合)を作ってみようということになり実行しました。ドクタ—の論文が遅れたのには、このXSHIBUYAも影響していますね。
でも、インディーズバンドのマネージャーをやっている時とやることはあまり変わってないんですよ。この業界は人材が豊富だから、仕掛けるという観点では面白いですよね。転職はたくさんしているけど、やっていることはぶれていないんですよ。
いやいや。1つ反省があって、もう「暇?」という言葉にはのらないようにしようと思っているんです。
もちろん、そこから良い経験もしましたし、良い出会いもありましたが、いままではそれで良くても、もう人生折り返し地点です。これからは僕が誰かに「暇?」と言わなければ進歩がないと思うんですよね。
「ミーティングをするときに、こっちの思っていることのすべてを言わずに若干ずらしてぶつけてみて、相手に『こうですよ』と言わせる隙を作るというやり方は結構使います。ビジネスプランの秘孔を突くというのも同様のことです」
学校で教えているから、人材開発がいかに重要かを感じるとともに、自分ができることや知っていることでシェアできるものはシェアしたいと強く思います。ちょっとした事を知らないがゆえに、ベンチャーでビジネスチャンスを1年ロスしたという話は沢山あるじゃないですか。労力使わないけどビジネスプランを相談されて、秘孔(ツボ)をピッとついたらうまく行ったという話は今までに何回もありますからね。
自他ともに和服が似合うと評判の本荘氏
理由は、凄く単純です。人事コンサルをやっている知人が着物コンサルを開 業し、モルモット顧客になれといわれ、実験台でやられたというのが大元です。
ただ、びっくりしたのがスーツと着物を着ている自分を見て、どっちが似合っているか一目瞭然なんですよ。これは結構衝撃的でしたね。
米国で学校、会社を通してさまざまな国の人と知り合う中で、日本を今からでもじっくり勉強してみても良いかなとも思いますね。文楽などには興味を持ち始めています。
これまで受け継がれている日本文化の中には何か意味があると思うんですよね。それは理系の人間が謎を解き明かすという気持ちに似ているかもしれません。着物を着ると、やはり日本人だからでしょうか、背筋がビッとしますよね。
いや、直感ですね(笑)。理屈は後から付けてくる感じですね。それにしても『仮面ライダー電王』はすごい。
(ここからしばらく仮面ライダーに関する話題が続きました)
どうでしょうね、これはキャラですから(笑)。芸風を今から変えろと言われても難しいですよね。一人で何でもできるわけではないという気持ちが強いのと好奇心が強いのかもしれませんよね。
歴史小説や歴史マンガですね。三国志(著横山光輝)など。
昔は諸葛孔明でしたが、今はマンガ『北斗の拳』のトキ(主人公ケンシロウの兄=次男)ですね。ラオウ(主人公ケンシロウの兄=長男)みたいに物事をスパッと切ってしまうよりは、トキのように風のようにかわして急所を撃つというそのスタイルが尊敬できますね。
ミーティングをするときに、こっちの思っていること+すべてを言わずに若干ずらしてぶつけてみて、相手に「こうですよ」と言わせる隙を作るというやり方は結構使いますからね。ビジネスプランの秘孔を突くというのも同様です。
ワインですかね。あれは趣味から脱しないと。いい加減ストップをかけないと、ワインの値段はピンキリですからね。カリフォルニアワインが好きですね。最近はオレゴンのワインにはまっています。
向いている人にはなってもらいたいし、向かない人には別の道にいってもらいたい。
日本社会はアントレプレナーシップを失わせたりくじくところがあるから、それを育むことは不可欠です。しかし、起業の熱だけを学んで卒業した人はそのあとが大変なんですよ。「頑張ります!」と世の中に出ていくけどこけてしまう。アントレプレナーシップは「起業して、頑張ります!」ということではないので、カリキュラムを考える必要があるんでしょうね。
大企業とベンチャー、技術とクリエティブという壁をすりぬける透明人間ですかね(笑)。
1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。
ブログ:「Edokko in San Francisco 2007」
趣味:タップダンス、ビリヤード、会話、旅、スペイン語
特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m
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