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 「ブログというサービスがこれから日本に来ますよ!」と、ある人が私に教えてくれたのが2003年の話。当時はブログを始めようと検索をしても日本のサービスにたどり着けずに、海外のサービスを利用してみた。しかし、日本語対応が遅れていて文字化けに悩まされた覚えがある。

 それから、4年がたち、今ではブログサービスは多くの人に利用され、一つのメディアとして急速に立ち上がって来た。今回登場の南さんは、当時私にブログという存在を教えてくださった冒頭の「ある人」であり、現在、アルファブロガー「デジクマさん」としてさまざまなデジタルガジェットの評価ブログを運営しているガジェット収集家でもある。

 そんなデジクマさんとしての原点と南さんの仕事における考え方について色々と聞いてきました。

※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。

「私がこうなった原点は、中野にあります」

--南さんはブロガー「デジクマさん」としても有名ですが、その原点はどこにあるのかというところから教えていただけますか?昔からデジタル機器が好きだったのでしょうか?

南氏 南一哉(みなみ・かずや)氏:東京都出身。1964年4月18日(発明の日)生まれ。上智大学経済学部経営学科卒。三菱商事(1987〜2000年)、ネオテニー(2000〜2004年)、東京海上キャピタル(2004年)、グーグル(2005年〜2006年)を経てデジタルガレージ/DGインキュベーション(2006年〜現在)。趣味は電子ガジェット収集、スクーターによるツーリング。好きな言葉は不言実行。

 私の家は代々、教師の家系なんですよ。祖父は大学教授でしたし、父親は高校の英語の教師、母親も英語の教師の資格を持っています。

 私が小・中学生の頃は、外国からの交換留学生が家に遊びにくることが結構あって、何となくではあるけれども、外国の人に対しての親しみはありました。とはいっても、海外に初めて行ったのは高校2年。父親がホームステイの引率で親しくなった先があったことで、初めて訪れた米国は、シアトルでした。その頃は、米国の方が日本よりも豊かでしたから、純粋に「アメリカって凄いな」と影響される事も多かったですね。

 では、「デジタル」や「コンピュータ」というキーワードで考えてみると、デジタル機器好きな自分を作り上げたのには、生まれ育った東京の「中野」という土地が関係していると思います。私は、東京の中野区で生まれ、立川や海外に住んだこともありますが、43年間の人生の3分の2は、中野に住んでいます。

--人格形成の原点が中野!その中野が南さんを魅了した理由は何だったんでしょうか?

 中野は、今では秋葉原に次ぐくらい世界的に有名なオタク文化の中心地なんですよ。中野にはご存知、中野ブロードウェイがあり、この中には中古漫画本やトレーディングカードショップに、ガチャガチャ人形の専門店やアニメグッズ、そのほかにも、オタク的なものが沢山集まっているんです。

--確かに、テレビなどで紹介されるレア物商品の提供先が、中野の**店というケース結構見かけますね。

 そうでしょう。中央線沿線の新宿から三鷹くらいまでは、関東大震災が起きた時に下町の人達が移り住んだ場所なんです。ですから、東京の西に位置しながら下町文化が色濃く残っていてコミュニティ要素が強い。中野から三鷹、武蔵境などは、駅前の様子が非常に似ていると思いませんか?

 都会というよりは人と人が濃く、近い感じ。そういう下町文化とオタク文化が非常に合うんですよね。最近では海外に、中野が報道されたりもしているんですよ。ところで、こんな話でいいのですか?

  

--なんとなく、中野ブロードウェイが原点という気がしてきましたから、大丈夫です。そこに南さんを魅了する何かがあったわけですよね?

 つまり、そういうオタク文化の中心で育つと何かしらの専門家になってしまう傾向があるということが言いたいんです。

 例えば、私の弟は現在世界的に有名なロボット・アニメーションの監督さんの付き人をやっていて、趣味は超合金集めです(笑)。中野には大きく分けて、漫画・玩具系の「まんだらけ文化」と、中古機械系の「フジヤカメラ文化」と2つの大きな流れがあって、弟は「まんだらけ文化」に近く、そして私はどちらかというと「フジヤカメラ文化」の方なんです。知る人ぞ知る趣味系中古カメラ専門店フジヤカメラには中学生の頃から通っていまして、アナログからデジタルへの移り変わりをカメラを通じて見てきました。たまに秋葉原に出かけて、部品を買ってハンダごてでラジオを組み立てたりもしました。

 パーソナル・コンピュータの可能性については、高校の頃から身近に感じる様になりましたね。NECの「PC-8001」を使い始めた時に、これからはコンピュータの時代だと考えるようになりました。まだ記憶装置がカセットテープだった頃の話ではありますが。

--コンピュータに触れたのが高校時代とのことですが、その頃になるとある程度、将来のビジョンを考えるようになりますよね?

 私はコンピュータが好きだったので、最初は理系を目指して受験勉強をしていたんですが、どうしても得意分野が文系だったので、最終的に文系を選び、大学は上智大学、経済学部へ。パソコンはあくまでも趣味で使っていましたね。

 当時は、PCとともに(フジヤカメラ文化の影響で)アナログのカメラが大好きだったんですね。その頃は、PCとカメラは全く別世界の物だと考えていましたけれど、最近、それが融合して来たので更に面白くなってきました。カメラに関しては、「撮る」という行為も好きですが、精密機器であるカメラのハードウェアそのものを理解したいという気持ちが強いですね。

--ちなみに、昔使っていたカメラというのは?

 キャノンの「AE-1」とか「A-1」といった当時は最新技術が投入されていたアナログ一眼レフカメラですね。今使っているのは、キャノンの「PowerShot G9」という、デジタル技術の塊の様なコンパクトカメラですが。そうそう、もう一つフジヤカメラから影響を受けたことで今の私を支えているのが「中古品売買ノウハウ」(笑)です。 ブログで色々な評価をしているので、沢山のカメラを買って溜め込んでいると思われがちですが、私にとってデジタル技術ベースの製品というのはいわば「流動資産」なんです。1年経つと、同じ性能以上の物が安くでてきて、1年以上持っているとその製品は陳腐化してしまいます。

 だから、買って使い込んで、しばらくすると中古専門店で買い取ってもらい、また先端技術の新製品を買う、という永続的な中古リサイクルのノウハウが必要なんですよ(笑)。デジタル製品世界での生き方というのを、中野の中古カメラ専門店で学んで来たということですかね(笑)。

--上智大学を選んだ理由は何でしたか?

 中央線沿線にこだわりがありまして(笑)。上智に入ったのも、中央線沿線だったからというのもあったんでしょうね。

 趣味的な話ばかりが続いてしまいましたが、大学時代はサッカーに明け暮れていましたよ。コンピュータという視点では、大学にいた1983年から1986年というのは、完全にプリ・インターネット時代で、PCはスタンドアローンで使っていました。コンピュータの授業もまだフォートランで、本当に紙束のバッチ処理利用のプログラミング授業を行っていました(笑)。コンピュータに傾倒するよりは、上智大学は外国の方も多かったので、グローバルな考え方に触れる、ということの方が刺激的でしたね。

コンピュータの必要性にボルネオ島で出会う

--デジタルガジェット大好き少年というイメージが強かったのですが、カメラにどっぷりではなくて色々な物に視野を広げていたわけですね。さて、大学を卒業して総合商社の三菱商事に入られるのですが、何かこれといった明確な目標があったんでしょうか?

 文系で入社するとスペシャリティがないので、必ずしも希望の部署に行けるわけではなく、その年その年でニーズがあるところに配属されます。私は資源系のグループの営業部に入りました。今から思えば、コンピュータ・ネットワークの必要性を強く感じたのがこの頃ですね。

--ここでこれまでよりもさらに深くコンピュータと強く結びついてくるわけですね。では、一体どんな体験があったのでしょうか?

 入社3年目(1989年)にマレーシアのボルネオ島への駐在を命じられました。その時に、駐在の道具として持っていったのが当時は最新型だったノートブックPCとモデム、そしてニフティサーブの会員登録です。

 当時は国際放送もインターネットもないので、情報を得るのは海外の短波ラジオとテレックスだけ。リアルな世界で情報に飢えていましたが、ニフティサーブ上にはさまざまな情報があって、パソコン通信って本当に凄いなと感じました。私にとっては情報のライフラインでした。

 ライフラインと言えば、もう一つは携帯電話ですね。当時は車載電話といわれていましたが。仕事の都合で四輪駆動で単独で山の奥深くに入って行くことも多かったんです。ですから、無線でつながる電話がなければ命に関わるんですよ。現場での状況を伝えるべく東京の本社と連絡とるためにも必要不可欠でした。

 その頃から、PCネットワークや携帯電話が今後凄い事になるという思いがさらに強くなりましたね。

--ボルネオ島は観光で有名な場所ですよね。そこでネットや携帯の重要性に気づきながら、悶々としていたのですか?

南氏 「情報通信の世界は毎年スペックが上がっていき、しかも値段は下がって行きますよね。商社のように間で商品を取り扱う仲介事業者は、何らかの付加価値を付けないといけないんですよ」

 日本に戻って来た1990年代初頭は、商社内でも情報産業グループが大きくなっていて、私にとってはまた違う人生が始まったんです。私が資源系の部から大きく仕事を変えられたのも、時流のお陰かもしれません。

 情報産業グループの企画セクションに配属となり「グループ全体の新しい事業の方向性」と「グループ投資先企業を見る」ことがミッションでした。その活動の一つとして、米レジス・マッケンナ社(IT マーケティング・コンサルティング専門会社)を日本に持って来るというプロジェクトに参画しました。

 新しい技術をどのように商品に仕上げたら売れるようになるかというコンサルティングをする。この会社の元々のクライアントが創業間もない頃のアップルやインテルで、今では著名なこれら IT 企業の初期からのマーケティング戦略立案に携わったブティック・コンサルティング会社のサービスを、日本市場に持ってくるというプロジェクトに参加できたんです。

 日本市場導入にあたっては、レジス・マッケンナ社自身のブランド・マーケティングをすることと、契約した日本国内クライアントの実際のコンサルティング業務の両方を手掛けなければならず、三菱商事ではなくレジス・マッケンナ社アソシエイトの南、として活動していました。

--それまで扱って来た原材料と違ってコンサルティングは形のないサービスビジネスですよね。新しい仕事をどのように自分なりに飲み込んだのでしょうか?

 正直、モノを扱うビジネスには限界を感じていて、先程の中古カメラと似ていますが、情報通信の世界は毎年スペックが上がっていき、しかも値段は下がって行きますよね。商社のように間で商品を取り扱う仲介事業者は、何らかの付加価値を付けないといけないんですよ。その意味で、コンサルティングが商社の中の事業R&Dという面でも非常に重要だと思いましたから、ポジティブにとらえていました。

 また、我々日本のメンバーでレジス・マッケンナ氏著作の『ザ・マーケティング』(ダイヤモンド社)を翻訳して出版しました。翻訳しながら我々も学ぶところが多くて、「ホール・プロダクト」という考え方はとても参考になりました。

 これは製品を構成する要素である、会社/サポート/ブランディング/メディア/ユーザーといったパーツの中で、どこかに足りないパーツがあり、それをどのように埋めて行くかというコンセプトなのですが、シンプルで素晴らしい考え方だと思っています。

 さらにもう一つは、当時はレジス・マッケンナ社のトップ・コンサルタントの一人だったジェフリー・ムーア氏とともに、同氏著作の「キャズム」のコンセプトをもってさまざまなクライアントを回ってコンサルティング・サービスをご提供する、という良い経験もしました。私のポジションはコンサルのアソシエイトではありましたが、色々と学ぶことは多かったですね。

--その後は投資事業をされたということですが、海外で投資をするということに関してはどう思われましたか?

 レジス・マッケンナ社は米国カリフォルニア州パロアルトに本社がありましたから、1996年くらいまではしばしば、東京からシリコンバレーに出張して仕事をしていました。プロジェクトを通じて何となくサンフランシスコ・ベイエリアのベンチャー文化を分かり始めた頃で、マッケンナプロジェクトを終了した後は、米国に長期出張をしながらベンチャー投資先を探すというのが新たなミッションでした。

 Googleが登場する前の話です。

--米国での当時の状況はどうだったんでしょうか?また投資先を探すにあたっての思い出深いエピソードなどありますか?

 インターネットが急速に成長して来た頃で、商用ISP(インターネット・サービス・プロバイダ)が複数登場してきました。その一つに投資するかしないかという頃に、デジタルガレージの共同設立者でネオテニー創業者の伊藤穰一氏と知り合いました。結局、そのISPには投資はしませんでしたが、Joi(伊藤氏の愛称)とはそれから随分と近しい関係になりましたね。

スピード感のある市場に飛び込むには、自分も速い判断をしなければ

--「海外での投資を経験する」という、端から見れば貴重な経験をされる中で、退職という決断をされたのには一体どういう理由があったのでしょうか?

 ベンチャー投資事業に関しては、大企業を内側からフェーズチェンジすることに限界を感じ始めていました。ちょうど1997年から2000年の3年間、ニューヨークに駐在をしていまして、随時各地に飛行機で出かけてインターネット・サービス開発のベンチャー企業を探していたんです。

 ある時、有名なニューヨークのテレビ局とスポーツ系ウェブサイトを運営するフロリダのベンチャー企業のディールに出会いました。米国では大手メディア企業と、創業間もないネット系ベンチャー企業が互いに対等な立場でビジネスをする様子を目の当たりにしました。幸いこのベンチャー企業には投資をすることができ、ほどなく、その企業は米ナスダックに株式上場をしたんですね。

 それは一例ですが、インターネット系投資案件に関しては、素早くデシジョンをして行かなければならない状況の中で、東京本社とのやり取りにおいてスピード感と米国的ベンチャー文化の理解、という点でもどかしい出来事が何度かあったんです。そのギャップに悩んでいる日々の中で、たまたま日本に出張した時に、先に会った、Joiがネオテニーというベンチャー育成・投資専門会社を赤坂で立ち上げたということで、これも偶然アポが取れて遊びに行ったんですね。

 Joiとの信頼関係もあり、「もしかしたらこの会社こそ、私が求めているスピード感を持っている会社かもしれない」という思いと彼からのオファーもあり、ネオテニーに移ることをわずか数時間で決めました。凄まじいスピードでインターネットの市場に飛び込むには、自分自身の素早いデシジョンも必要ではないかという思いもありましたね。今から振り返ると、これは大手総合商社の動きが遅いということでは決してなくて、速く速く、という私の気持ちの方が先行していたのだと思います。三菱商事は、人材を大切にする素晴らしいグローバル企業で、今でもその頃の仲間との交流は続いています。

--商社から、ネオテニーへ。インキュベイトをする会社とはいえ立ち上がったばかりのベンチャーに入られてどのような気づきがありましたか?

南氏 「かつて米ジェネラル・マジック社も果たせなかった、実用的なエージェント・サービスは、デジタルとアナログ世界が融合した緩やかなサービスから生まれるのではないかと期待している次第です」

 ネオテニーに移ったのが2000年4月。そしてITバブルがはじけるも2000年の春から夏、でしたから、ベンチャー投資環境の変化が激しく非常に厳しい時期でした。小さい会社というのは大きい会社と違って、当然会社の中にはない機能がたくさんあるわけで、自分が投資先に対して多くのインキュベーションサービスを提供しなければならないことと、会社としてネオテニー自身が成長するためにやるべきことを両立する、という事が、創業間もないネオテニーにとっては大きな課題でした。

 正直、転職という自分のデシジョンが正しかったのかなと、転職してしばらくは悩む時期もありましたね。今考えれば、その時の苦悩があるから今の自分があるともいえますが。

 ベンチャー企業は同僚との間がフラットで近い分、直接バンバンぶつかり合うことも最初は多かったですね。出身母体が異なる人たちがひとつに集まりましたし。成長段階で出てくる、改善すべき点について投資先に対してだけでなく自分の所属するネオテニーに関してもしばしば議論していました。ネオテニーという会社に移ったのは、結果的には非常に良かったなと思いますね。世界最初の商用ブログサービスを開発した米シックス・アパート社への投資や日本事業の立上げ支援、最終的に日本のアクセス社に買収された、日本人がシリコンバレーで起業したルーター・ソフトウェア開発ベンチャーの IP インフュージョン社への投資も実行出来ましたし。

デジタルとアナログ、どちらも大事にしたい

--大企業の気持ちとベンチャー企業の気持ち、そして投資やコンサルティングに関する経験というものが、まさに南さんというホールプロダクトのさまざまなパーツとして機能し始めたという事ではありませんか?そこから、国内VCの東京海上キャピタル、更にGoogle日本法人へと移られるわけですが、簡単にその時、その時での気持ちの変化を教えてもらってもよろしいですか?

 「私というホールプロダクト」ですか?面白い事言いますね。(笑)

 さまざまな経験をしましたが、総合商社を辞めた理由はそもそも「プロフェッショナルなベンチャーキャピタリストになる」ということでしたから、もっとキャピタリストとしての自分を磨きたいという思いから東京海上キャピタルへ移ることを決めました。それが2004年の話ですが、その頃はファンド満期が近く、新規投資というよりも、既に投資した先をどう育成していくのかというフェーズに入っていました。インキュベーションという観点では、東京海上キャピタルは国内でも積極的でしたから大変勉強になりましたが、本当の気持ちはやはり海外ベンチャーへの投資だったんですね。

 インキュベーション・ハンズオンという言葉がありますが、米国のベンチャーキャピタルの多くはそれが大前提で投資を行いますから、米国式ベンチャーキャピタルのプラクティスを学びたい、シリコンバレーベンチャー企業に投資をしたいという思いが強くなる一方で、現実は違う局面にいたわけです。

 では、そこからGoogleに何故移ったかというと、これはキャピタリストとしてのキャリアアップということではなくて、「ベンチャーから急成長したGoogleというブラックボックスを内側から見てみたい」という知的好奇心そのものでしたね。実際、中からみたGoogleは衝撃的でした。インターネット関連技術に関する最高のリソースを持っている会社で、ご存知の通り会社組織構造は超フラット。このフラットネスはインターネットの文化そのものだと思います。

 2005年の1月から2006年の3月という短期間ではありましたが、新規事業開発マネージャーとして活動をしていました。

--そこから現在、デジタルガレージグループの投資・事業育成会社にいるということは思うところあってのことと思いますが、Googleを中からみた後に、やはりベンチャ-企業のそばでアドバイザーとして、またキャピタリストとしてやりたいという思いが強くなったということでしょうか?

 Googleは完全に自動化された世界を効率的に作って行くという点で、右に出る企業は今後もなかなか出てこないだろうと思います。

 ただ、すべてがオートマティックになるわけではなくて、小回りが利くスタートアップによる異なるヒューマンタッチが必要な事業分野があると思っていて、その辺は伊藤穣一的考え方だと思いますが、私はその後者を盛り上げて行きたいという気持ちが強いことに改めて気づきました。

 ブログやSNS等は、結局人間の知恵というアナログな物をインターネットに引き出して、CGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)サービスというものが形成され始めているわけで、これと自動化された世界がうまくマージして行くことで、より素晴らしいサービスが出来上がって行くのではないかと考えています。

 最近では米ツイッター(Twitter)のようなミニ・ブログという「つぶやき」を書き込むサービスが立ち上がっていますが(編集部注:DGインキュベーションは、本年1月初旬に同社への投資を発表)、誰かがつぶやいたことに対して、他の誰かが必要に応じて助けてくれる事もある、というデジタルとアナログ世界が融合した緩やかなサービス、というのは非常に面白いと思っています。かつて米ジェネラル・マジック社も果たせなかった、実用的なエージェント・サービスは、こうしたデジタルとアナログの融合から生まれるのではないかと期待している次第です。

--今お話を聞いていて思うことは、南さんは昔からカメラ好きで、デジタルカメラでも何でも好きな部分はアナログな精密機械部分だとおっしゃいましたよね。つまり、デジタルとアナログの融合、どちらも大切にしたいというのが南さんにとって昔からの価値観のような気がします。では、今後についてはどのようにお考えですか?

 デジタルガレージグループにきて1年半が経ちました。これまでは、人間の叡智が詰まったブログを検索可能にするという「テクノラティ(Technorati)」や、WiFi無線ネットワークシェアサービスの「フォン (Fon)」等海外ベンチャー企業への投資と、日本市場展開支援に関わってきました。デジタルガレージグループでは、ベンチャー企業を事業育成できる環境とリソースが充実しているので、ネオテニーの頃には余裕と経験が足りず十分に出来なかったインキュベーション・サービスがここなら投資先の方々にも満足いただける形で提供できる、という実感があります。

 最近では、「イートロジー (Etology)」という、ブログ等ロングテールのメディア・パブリッシャーと大手広告主を仲介する広告サービスを開発・提供する会社にも投資を実行しました。この会社はシリコンバレーのフォスターシティに本社がありますが、中国上海に巨大な開発拠点を持っており、非常に先進的で効率的なグローバルサービスを提供していくだろうと期待しています。日本国内では既に、デジタルガレージグループのCGM マーケティング社が、「アドバタフライ」というサービスを、イートロジー社の技術を利用して展開しています。

--仕掛けるということを楽しんでいるというのが伝わってきます。これまでの経験が生かせるスピード感のある会社に巡り会って、「南一哉」というプロダクトがいよいよ始動という感じがします。ところで、インキュベイトという観点からすれば、総合商社やネオテニーでの経験が南さん自身をインキュベイトしたとも言えませんか?

南氏 「やはりデジタルガレージ林CEOやJoiの考え方、スピード感に同調するところが多く、彼らの考えるインターネットのフロンティア的取り組みに対して、私自身も参加して支援して行きたいという強い気持ちがありましたから。転職のタイミングでは、常に全幅の信頼を置ける人たちがいる会社へと、移る決断をして来ました」

 現在の私にとっては、両社での経験は本当に役に立っています。今だから告白しますが、実は、三菱商事の資材部門に所属していた若い頃に一度、会社を辞めようと思ったんですね。ボルネオ島に駐在していた時は、職場環境が奥地で厳しく、同じアパート内で殺人事件が起きたりもしました。一方で、コンピューター関係の仕事をしたいと気持ちも強くありましたから。

 しかし、本当にやりたい仕事が見つかる迄もう少し待て、と強く押しとどめてくれた上司がいて、今思えばあの時点で辞めなくて良かったと思っています。辞めるタイミング、ってあると思うのですが、正しいタイミングで決断をするということが重要だと感じています。

 ネオテニーでは、先ほども言いましたが、ベンチャー育成に必要な全ての基礎を、この会社で学び、志を同じくする良い仲間達と出会う事が出来ました。新産業を育成する三菱商事、小回りの利くベンチャーを育てるネオテニー、両社での体験が、今の自分の原点かもしれません。

--南さんにとっての「辞める/辞めない」という判断で重要なことは何ですか?

 それは、「人」です。今の会社に来たのも、やはりデジタルガレージ 林CEOやJoiの考え方、スピード感に同調するところが多く、彼らの考えるインターネットのフロンティア的取り組みに対して、私自身も参加して支援して行きたいという強い気持ちがありましたから。転職のタイミングでは、常に全幅の信頼を置ける人たちがいる会社へと、移る決断をして来ました。

--伊藤穣一さんとの出会いが、大きなターニングポイントになっているんですね。それでは、最後にいくつか質問させてください。何度も読み返す本やお気に入りの本があれば是非教えてください。

 

 最初の方に述べましたが「ザ・マーケティング」(レジス・マッケンナ著、ダイヤモンド社刊)ですね。原作は「リレーションシップ・マーケティング (Relationship Marketing)」というタイトルですが。

 三菱商事時代に翻訳作業を手伝いつつ学んだこの本の内容こそが、私の人生のフェーズチェンジのきっかけでもありましたから。

--では、南さんが尊敬する、ライフスタイルに多大な影響を及ぼした人はいますか?

 私の曽々祖父、南一郎平(いちろべい)です。時代が江戸から明治に変わった頃に、日本各所で大きな疎水工事が行われたのですが、その主任技術者でした。曽々祖父の故郷、大分県の宇佐地方は田畑の為に水を引くのが困難な岩盤が固い台地だったのですが、私財をなげうって疎水工事をし、後に明治政府の後押しもあって疎水を完成させたという人物です。

 彼はこれにより明治政府に認められ、三大疎水といわれる福島県の安積(あさか)疎水、滋賀県の琵琶湖疎水、栃木県の那須疎水の総監督も務めました。私も先祖のように、「ベンチャービジネス」の世界に必要な各種リソースという水を引ける人物になりたいと常に願っています。

--疎水のスペシャリストですか!今の南さんは、そのご先祖の遺伝子によるところが大きいという気がしてきました。最後に、デジクマさんとしてのデジタルガジェット収集はよく知られている所ですが、その他はまっていることはありますか?

 B級グルメですね。値段が高くて美味しいというのは当然のことで、安くて美味しいお店にこそ価値があると思います。その意味で、我が街、中野には安くて美味しいラーメン屋などのB級グルメ店がたくさんあるのですよ。

--おお!最後にまたまた登場しました「中野」。今度、カメラをチェックしに南さんの原点でもある中野へ行ってみます!

Venture BEAT Project
こだまん(児玉 務)

1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。

ブログ:「Edokko in San Francisco 2007

趣味:タップダンス、ビリヤード、会話、旅、スペイン語

特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m