2007年12月4日 15時20分
こだまん
1999年はじめ、日本アイ・ビー・エム(日本IBM)社内で1つのプロジェクトが立ち上がった。その名は「Net Gen Task」(ネットジェン)。
IT業界で次々と誕生する急成長のベンチャー企業は、年々IT投資を拡大している。そこにIBMのビジネスチャンスを見つけると同時に、協業のビジネスを生み出すことを目的として集められた5人の社員。この中でひと際目立つ存在だったのが、2007年10月に日本IBMの最年少理事になった伊藤昇氏である。
ネットジェン当時は“IBMの変わり種”というイメージが強かった伊藤氏だが、取材を通じ、実はごく自然にIBMの社訓でもある「think!」を実行している、代表的なIBMマンであることが見えてきた。
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
伊藤昇(いとう・のぼる):1967年4月22日生まれ。東京都出身。慶応大学法学部政治学科卒業。1990年日本IBM入社後、中堅企業向け新規開拓営業、PCサーバー及びeビジネスソリューション営業、Netgen営業、マーケティング、SWパートナー事業などを経て2007年10月より同社理事。
音楽の影響は両親からですね。父親が某テレビの音楽番組のプロデューサーだったこともあって、家に芸能関係の方々が遊びに来たり、人気アーティストのライブを観に行ったり、レコーディングの現場を見学させてもらったりしました。また、高校時代などはフュージョンが流行っていて、高中正義やカシオペア、サンタナを聞き出したことがきっかけでバンド活動を始めたわけです。
たまにそういう勘違いをしてしまう子供っていますよね。でも僕は幸いにも小さい頃に「君は芸能人向きじゃないね。残念だけどその顔ではどんなに頑張っても無理だから、違う人生を歩みなさい」と家に遊びに来ていた業界の人達に駄目出しをされましたから、勘違いも何もありませんでした。(笑)
背が小さいというのが昔からコンプレックスでしたし、体が弱かったんですよ。朝礼の最中に貧血で倒れるような弱い子供っているでしょう?まさにそういう激弱な子だったんです。
いや、体は強くなかったのですが、学業一番で運動もそこそこできたから、いじめというのはなかったですね。ただ、要領が良かったこともあって、ことあるごとに先生が僕をひいきするものだから、ねたむ人達が周りに出てきて、いじめではないですけれど、距離を置かれるようになってしまったんですよね。
そうすると問題解決をしなければならないから、子供ながらに必死で分析したわけです。その結果、「先生が自分を無闇にひいきするのが悪い」という結論に至り、先生にそのことを訴えました。今考えると生意気な小学生ですけどね(笑)
人生の先輩である某有名アーティストに相談をした時に、「大企業で働くことも良い経験になるし、音楽はずっとできる」とアドバイスをもらったんです。どうしようかとも思いましたが、「目指している音楽の道の先輩がそう言うなら…」と決断しました。
入社したのが1990年。最初は立川の営業所に配属されて、東京23区以外の都下の中小企業を担当しました。営業所自体は途中、立川から府中に移りましたが、西東京エリアの新規営業としては6年間活動しました。
印象深かったのは社会人初日、営業所長に「君はなめた顔しているね。仕事はできるだろうけど、ぬるま湯に浸かっていると結局できない人間になるよ」と言われたんです。その時の営業所長は、日本IBMの中でも伝説の営業マンだったんですが、まだ音楽の世界に未練があったことを見透かされたんですかね。このことはその後の仕事をする上で、どこかいい意味で心に残っていったと思います。
当時は、中小企業向けのオフコンを売っていました。西東京にはビルがあまり多くないので、工業団地を営業していましたね。企業数に関しても、おそらく東京の港区の企業数よりも少ないと思います。
当時はマーケティング部門もなかったので、自分でセミナーなどを仕掛けていましたね。流通、サービス系のお客様が多かったかな。状況としては厳しかったですが、あれこれお客様にメリットのあるものを提案するのが僕の役目だと思っていましたから、新しいものや便利なものをどんどん提案していきましたね。
成功への戦略?正直、自分の力量を超えているのではないかと疑ってしまうような案件が自然と自分のところに舞い降りてきて、でもそれが面白いから夢中になってやってしまう。ただそれだけのことなんじゃないかな。
例えば、1994年頃の時点でビデオオンデマンドのサービスを塾経営の企業に提案したりもしました。ただ、あれは時期尚早でクオリティがまだまだだったのですが、あれこれ考えながらクライアントのメリットになるようなさまざまな提案ができるよう、常に意識して考えてはいましたよね。
1997年、1998年は日本IBMがPCサーバで本格的に市場参入した頃だったから、一所懸命売っていましたね。やはり、東京の第一線の現場では企業がたくさんあって、それら企業の多くがシステム投資を検討している状況だったわけですから、提案の仕方によってはいくらでも企業は話を聞いてくれるし、クロージングまで持っていける比率は必然的に高まる。面白くてしょうがなかったですよ。
大規模な新規開拓の案件の話ですが、20年以上も他社の製品を使っているお客様で、そこのシステムの課長が辞表と一緒に僕の提案を会社の稟議にかけて下さったんです。失敗はできないから、関連した人達は徹夜で頑張ってくれましたし、結果として導入したことにより、これまで以上に良い成果が現れてそのお客様から感謝されたんです。
この一件から新規開拓って面白いなと感じましたし、その成功体験以降は、新規営業も順調に進みましたね。
成功への戦略ですか?単に僕が負けず嫌いだったんじゃないですかね。実際、27〜28歳くらいまでは、仕事の傍らで月1回はライブをやっていましたし。 その頃までは、音楽で一旗揚げてやろうという気持ちは強く持っていました。
ただ、当時はプロダクションに入って音楽活動をするまでにはなっていたのですが、やはりどこかの時点でこれ以上プロとして音楽の道を目指すことには挫折したんですよね。
実は、1997年頃からベンチャー企業と一緒に仕事をしていたんですよ。例えば、スポーツ関連の分析・解析ソフトの開発をあるお客さまと一緒にやって、出来上がったソフトを売り込みに海外まで一緒に行ったりだとか。そうしたことなどをやっていたから、「ベンチャーなら伊藤」というイメージが社内的にあったんでしょうね。ベンチャー企業も中小企業という括りに入るじゃないですか。
それまでも、インターネット関連の雑誌などは読んでいましたし、インターネットビジネスが急成長するということは1995年頃から感じていましたから、1999年にこのプロジェクトに選ばれたときは「さらに面白い仕掛けが作れる」とワクワクしましたね。
新たなビジネスをやろうとしている人達はすごく苦労して頑張っていますし、志が高い人も多いので、一緒に仕事をしたら面白いだろうなというイメージもありましたから。
このようなプロジェクトを日本IBMとしてやる場合、商売の距離感や、付き合いにくい壁というものを取り払うことを会社が約束しない限りできませんから、まずは社内を口説いて回って、タスクを立ち上げるための骨となる人、モノ、金を集めました。
また、お客様であるベンチャー企業に対してもスピード感ある提案ができるように、ハードウェア、ソフトウェア、サービス、ファイナンスといった各事業部のトップと社長を含めた役員を一堂に会した月1回のミーティングを持ち、その場で各事業部のトップに「YesかNoか」を即断してもらうという活動もしましたね。
サーバーを無償で貸すというプログラムも必要だということで社内的に動きました。すべては、「お客様に対してより良い環境を作ることが何よりも大事だ」という思いでやったことです。
それはありましたよ。しかし、起業するのが目的ではなかったんですよね。事業内容がどれだけお客様に喜ばれるか、そして自分にとって納得感があるかというのが大事なポイントで、個人事業主でやるのか大企業に属してやるのかということに関しては、決してプライオリティとして高くないことだったんです。
実は、西東京営業所で働いている時に、一度辞表を出したことがあるんです。1995年頃ですかね。しかし、よくよく考えてみると、自分がこの会社に相当お世話になっていることに改めて気づき、まだ恩返しができていないと感じました。ですから、ネットジェンの時も、お客様にとってより良い環境作りと自分が楽しめるような協業のスキーム作りを考えることに注力していましたね。
僕はラッキーなんだと思います。特に部長になりたいとか言ったこともありませんし、あくまでもお客様のために最善を尽くしてきただけですから。
その通りです。負けず嫌いではありましたけど、社会人になりたての頃はIBMなんて全く知らない世界だから、戦略的にというよりもむしろ、経験になるものであれば何でもやってやろうと思っていたくらいですよ。
先ほど自分がラッキーだと言ったのには理由があって、いつも面白いところにアサインしてもらっているんですね。かつては、スポーツインダストリーの日本代表として英語もできないのに、海外と電話でミーティングしたりなんてこともありました。
正直、自分の力量を超えているのではないかと疑ってしまうような案件が自然と自分のところに舞い降りてきて、でもそれが面白いから夢中になってやってしまう。ただそれだけのことなんじゃないかな。
勉強せざるを得ない状況です。でも、勉強というよりも、現場で鍛えられているという方が多いでしょうね。海外の上司からあらゆる角度から鬼のように突っ込まれて、それに回答しなければならないハードな状況が多いですから(笑)
1つ言えるのは、綺麗な英語を使うことよりも、言いたいことを簡潔に伝えることの方が重要なんです。それに、グローバルコミュニティでは話した者が勝ちです。たとえ綺麗な英語が話せても、お願いしたいことや伝えたいことが明確にないことの方が問題だと思います。
結局、英語の問題は英語自体の問題というより、相手の立場でどれだけ分かりやすい自己表現ができるか否かという問題に帰結するのではないでしょうか。
「周りの協力を得られないのは何故だろう」「協力を得るための解決策はなんだろう」――。徹底的に考え抜かない限り、普段の生活の中で起こるすべての問題に対するより良い解決策を見つけ出すことはできない
これはアメリカのプログラムを僕が日本に取り入れたのですが、そもそもの着想の原点は「現場にいる人が一番偉い」というところにあります。やはり、お客様に対して一番考えて行動している人が評価されるような制度がないと、会社組織として健全ではないと思うんですよ。
今でもビジネスパートナーも含めた“日本IBMのお客様”にはかなり訪問していると思いますよ。確かに、当時と比べて一件一件のビジネスを契約して一喜一憂するという面白さはなくなりましたが、今僕の下にいる100人の部下が日々成長する姿を見ているのは面白いですよ。
紐解くと、「お客様が幸せになるためにはどうすればいいのか」ということと、「社員が幸せになるためにはどうすればいいのか」という観点では、方法論こそ異なりますが、軸となる基本理念は一緒だと思うんですよ。我々が提供するサービスによってお客様に喜んでいただければ、我々にもそれ相応の利益と仕事のやりがいや達成感となって跳ね返ってくるわけですから、具体的な手法は違っても、最終的に目指している目的は両者間で変わらないということです。
具体的な社内でのコミュニケーションということであれば、僕に付いてきてもらって一緒にお客様を回ってもらうだとか、1対1のミーティングを持つだとか、他の人がやっているようなことも含めて色々取組んでいます。 あとは、常に笑っていることですかね(笑)
一つには、忘れることですよね。悔しいことは結構覚えているけれども、楽観的なんですよ。
ただ忘れるとは言いましたが、まずうまく行かないときは徹底的に考えるようにしています。営業の時は、自分の提案が悪ければそれを変えれば良かったけれども、今は自分だけが変わっても周りの協力がなければ変わらないことの方が多いんですよね。
ですから、「周りの協力を得られないのは何故だろう」「協力を得るための解決策はなんだろう」――と徹底的に考えるんです。徹底的に考え抜かない限り、普段の生活の中で起こるすべての問題に対するより良い解決策を見つけ出すことはできないのではないでしょうか?ましてや、一瞬で解決策が見い出せることなど皆無だと思っています。
個人でもチームでも、何らかの目的に向かって手段を決定するときは、どれだけ考え抜かれたかどうかでその手段の価値は決まると思うし、それによってどれだけ高付加価値の手段を提案できるかどうかが、相手から得られる信頼の深さを決定付けることなのではないでしょうか。
パートナーさんから信頼されるアドバイザーになれるか、お客様に信頼される営業になれるかどうかが、今後の日本IBMに求められていることと思っています。信頼を1つでも得ることができれば、成功体験として良い流れを生み出すことができると思っています。信頼できる人間を増やすことこそ、会社にとっても社員にとってもゴールなんだと信じていますから。
父親ですね。自分の考えをしっかり持っていて、物事を複眼で見る能力に長けていますから。
また、芸能界という業界にいながら、欲に惑わされず、いつでも自身の信念にぶれがないというところからも見習うことが多いです。
元々スポーツが好きですから、サッカーの三浦知良や野球の桑田真澄・清原和博や野茂英雄など、僕と同世代の人たちの自叙伝から刺激を受けることは多いですね。何とか論というものよりは、現実にあった苦労話の方が示唆に富み楽しいですね。
理事になった時に、社内から色々とメールをもらいました。一番多いのは30代前半の若手からでしたね。若手に対しては、チャンスがあるということを示せているのかもしれません。今後はもっとチャンスが増えてくると思いますけどね。
さまざまな人と仕事ができるというところでしょうね。特に今は、グローバルに仕事をしていてさまざまな国籍の人と仕事をすることが多いのですが、それが本当に面白い。一日かけてのミーティングやディベートなど、かなりタフなシチュエーションも多いのですが、それはそれで楽しんでしまっています(笑)
1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。
ブログ:「Edokko in San Francisco 2007」
趣味:タップダンス、ビリヤード、会話、旅、スペイン語
特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m
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