サイボウズ創業者の高須賀宣氏。日本時間で10月2日、アメリカで世界展開を念頭に入れたソフトウェア「LUNARR」のアルファ版を日米で正式公開し、起業家として2度目の人生を歩み始めた。
成功した起業家としての名声や地位を後に、過去の栄光が何1つ通用しない「新サービスの世界展開」という道を、自ら選択した高須賀氏。確かに、世界に通用するサービスを提供するベンチャー企業の誕生は昨今、国内で切望され続けている。しかしなぜ、一度は国内で成功を手に入れた人間がそのことにこだわるのか。また、その原動力となっているものは何なのか−−。
3回目となる今回は、世界を視野に活躍する熟練ベンチャー経営者、高須賀氏という人間の原点と、その強さの条件に迫ります。
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
高須賀宣(たかすか・とおる):1966年愛媛県生まれ。1990年に広島工業大学工学部経営工学科を卒業後、同年に松下電工入社、情報システム部門(ISセンター)情報配線事業推進部でネットワークを担当する。1996年にヴイ・インターネットオペレーションズ(松下電工グループ子会社)を設立し、取締役副社長に就任。 1997年にはサイボウズ設立、代表取締役社長に就任。2000年にはサイボウズが東証マザーズに上場、2002年には東証2部上場。2005年にサイボウズ取締役を退任し、2006年にLUNARR,Inc.を設立、社長兼最高経営責任者に就任。
どこの小学校にも「ガキ大将」っていますよね。僕がまさにそれでした。
例えば幼稚園のころの話ですが、演劇の発表会で狼の役を与えられた時、舞台に出る直前に他の狼役の子供達に「一言も言うなよ!」と圧力をかけて、舞台上ですべての台詞を僕がしゃべってしまいました。今思えば、嫌な子供ですよね。
ほかにも話せばたくさんエピソードはあるんですが、とりあえずこの辺に留めておきましょう(笑)。まあ、典型的なガキ大将だったということです。
僕、小学校を3回程転校していまして、2回目の転校のときだったかな?転校先のガキ大将に叩きのめされましてね。色々と考えるようになったのは、そのころからでしょうか。とはいえ、その後も悪さばかりしていましたけど(笑)
愛媛県の八幡浜市に引っ越しまして、そこはもの凄い小さい町でした。皆が顔見知りで遊び仲間といえば、年齢に関係なく子供から若者まで一緒に海や山で遊んでいました。高校生になっても悪さばかりしていましたから、自分が更生したと意識したことはないですね。
動機は不純でした。当時の彼女(現在の奥様)が優秀で、付き合っているうちに「彼女が大学に行くのなら、大学に行った方が楽しいことがたくさんあっていいのかなぁ」と(笑)。工科大学に入ったのは、近場だったからというのが正直なところです。
研究室へは、「コンピュータの時代が来る」という周りの会話を聞いて入りました。まぁ、そのころからようやくインテリジェンス欲求に目覚めたとも言えます。
でも、実際はゲームがやりたかったんです(笑)。ゲームを起動させるには、MS-DOSを覚えないといけないですから、「まずは概念を知らないと」ということで。
でも、ちゃんとまじめに学術研究とかもしていましたよ。説得力ないかな?(笑)
バブル絶頂期でしたから、売り手市場でどこにでも入れた時代です。だから、金融系か地元のソフトウェア会社に行こうかと思っていましたが、父親からの「これからも伸びるメーカーがいい」という言葉もあって、松下電工を選びました。
入社したときは、「自分を採用してくれた」という感謝の気持ちでいっぱいでしたよ。周りは有名大学出身の人も多かったし、先輩達は何語かわからない用語を使いこなしていて、自分も「何とかついていって、仕事で認められるぞ」と「TCP/IP」、「UNIX」などを徹底的に勉強しました。本当に死ぬ程勉強しましたね。一生で一番勉強したかな。
そう!劣等感ですね。だからこそ「やってやるぞ!」という気持ちが強くて それがエンジンになりました。
対人ではなかったですね。人と何かを競い合うということではなく、「自分自身が納得し誰もが認めるものをつくりあげてやるぞ!」という気持ちが強かったですから。これはメーカー的な発想なのかもしれませんね。
確かに、誰かに自分が認められたいという気持ちはありますよ。それが僕の原動力の1つであることは間違いないです。しかし、それよりも大切なことは、「これは誰もが認めざるを得ないものだな」というモノを創造することが何よりも楽しいと感じ、「それに向かって自分が挑戦し続けているんだ」という充足感だと思うんです。
だって、「おもろい!」って感じられなければ、そこに自身の最高の情熱を傾けることはできないでしょう?だから、自分の気持ちに正直になり、「これは絶対にみんなびっくりするぞ!」ということをきちんとできるか否か、ということだと思うんです。
ですから、劣等感という1つの原動力を秘める一方で、周囲の評価はあまり気にしないという一面もありました。
5年目には、「これがやりたい!」ということが見つかり、後先考えずに社長へ「事業部を作らせて欲しい」と直談判もしてしまいましたし。
技術バカだった僕に経営という視点を学ばせてくれたのが、94年頃の経営企画室のプロジェクトでした。それは、役員の意思決定プロセスをもっと早く、精度を高くするシステムを作るというプロジェクトで、ネットワークの技術分野で成果を出せていたこともあり、僕がそこに選出されたんですね。これが転機となりました。
今まで「経営」という言葉は自分にとって遠かったものが、ものすごい近くになった時に「なるほど、こういうものか!結局は人間がやっていることなんだ」と認識しました。今まで天上人のような存在だったものが、一気に縮まった感覚を得ましたね。
いや 単に「面白い!」と思ったんです。それまでは、「技術の世界の中で、すごい技術を」という思いだけでしたが、プロジェクト参画後は「ビジネスの中で凄い技術を!」と意識するようになりました。松下電器グループの創業者である松下幸之助さんの考え方に興味を持つようになったのもこのころです。
これは3人の中で合意があったのですが、払えなかったわけではありません。払えるのに払っていなかっただけなのです。使えるお金は給料をケチってでもその多くを広告宣伝費へ回していきました。ただ半年経った後は、皆銀行の預金が底を尽いたので払うようになりましたけどね。
その話を語るにはまずここから話さなければなりません。
僕がすごく感動したパンフレットがあります。それは80年代のアップルコンピュータ(現アップル)のパンフレットで、一枚めくると月の上を歩く人の写真と「Moon Walker」という言葉。次のページにはジョン・レノン氏とオノヨーコさんの2ショットの写真と「Lovers」という言葉。次のページにアインシュタインと「Questionner」。凄いカッコいいと思いました。言葉一つがその人の人生の代名詞となっているんですから。
それから、そのような「○○と言えば××」というような代名詞となるサービスや企業を、自分の手で作りたいと思うようになったんです。
例えば、今では世界の誰に聞いても、データベースといえばOracle、検索といえばGoogleですよね。サイボウズを立ち上げた頃は、「グループウェアといえばサイボウズ」が目標でした。
それが、アメリカやオーストラリアといった海外への進出の過程で「海外に通じない」と感じるようにました。この時点でモチベーションは半分以下に落ちてしまったんです。その後買収戦略を練り、1年半ほど動き回りましたが、やはり僕にはそういった経営戦略は性に合わなくて、結局自分の中で消化不良を起こしましたね。
それもあります。しかし、そんな一番気持ちが落ちている時に松下時代の先輩に会って、目の前にあるきっかけが転がってきたんです。絶妙のタイミングで。そこに大きな起業機会を感じました。そうしたら、頭のスイッチが切り替わってしまい、今度は「世界の人が『○○と言えばLUNARR』と認めてくれるサービスを展開する」という思いで胸がいっぱいになりました。
サイボウズで世界にいけないと自己分析した結果、米国は市場の立ち上がりが1年半も2年も早いと感じました。そして、ソフトウェアの世界のシェアのおよそ4割はアメリカが押さえている。となると、世界で一番になるためにはこの米国のシェアをまずは獲らないと話にならないんですよ。
ならば、米国に行くしかない!−−。この思いだけです。
それはありましたが、自分にとってはあまり重要なことではありませんでした。なぜなら、やりたい仕事がそこにあるからです。行ったら行ったでどうにかなるだろうと思っていました。
いやー、ものすごい大変ですよ(笑)でもそれは、生活するにあたってはということ。例えば、「Water」が通じないから一日何回「水!水!」って言っているんだろうと感じたりという意味においてです。
しかし、ビジネスの現場では人種も文化も、言葉の壁さえ全く感じません。どれだけ面白いことを考えて、発言し、実行するか−−。それだけが評価の対象だと感じていますから、本当に面白いですよ。
周りの反応は僕にとっては理想的ですね。リーディングエッジな方々とお会いしていますが、「これはすごい!」という意見と「何これ?何が凄いの?」という反応できっぱり二分しています。どちらかに偏るモデルはうまくいった試しがないので、二分するという点では、完璧なシチュエーションだと言えます。
あと、サイボウズの創業者という肩書きは全く通じません。誰も知りませんからね。まさしくゼロスタートの状態ですから、本当にワクワクしますよ。
僕にとっての一番の刺激は、周りが「できないだろう?」ということを実現する事ですね。松下で社内ベンチャー募集の際、サイボウズのビジネスモデルを出したときは「あー悪くないよね」という反応でした。だから辞めたわけです。
もうすぐです!国内では10月2日に正式発表(インタビューは2007年7月に収録)しますよ。面白いマーケティングで面白い商品を世に送り出すべく、今、頑張っています。今回もそのマーケティングに関する打ち合わせで日本に帰ってきました。
やはり、松下幸之助さんです。先ほども言いましたが、これまでもこれからも、自分の意思決定において、「彼ならどうするか?」が基本です。その松下幸之助さんの著書で一番好きなのが「指導者の条件」です。「商売心得帖」も好きですけどね。
現在世界に通じる日本の企業は、第二次大戦後の高度経済成長期に伸びた企業ばかりで、その後出てきた企業ってないと思うんです。僕らの世代が頑張って、世界に通じるプロダクトやサービスで新しい「○○といえば日本の××」になれれば素晴らしいと思います。そのために僕もチャレンジしていますので、是非皆さんも楽しくチャレンジし続けて欲しいです。
1997年日本アイ・ビー・エム入社。ベンチャー企業との協業、インターネットプロバイダー市場のマーケティングを経て、2000年よりナスダック・ジャパンに出向し、関東のIT企業および関西地区を担当。帰任後は、IBM Venture Capital Groupの設立メンバーとして参画し、その後退職し米国へ留学。パブリックラジオ局(KPFA)での番組放送の経験を得て帰国後の現在は、「“声”で人々を元気にする」をモットーにラジオDJ、イベント司会、ポッドキャスティングの分野で活動中。「Venture BEAT Project」プランニングメンバー。好きな言葉は「アドベンチャー」。
ブログ:「Edokko in San Francisco 2007」
趣味:タップダンス、ビリヤード、会話、旅、スペイン語
特技:アメリカンフットボール、陸上競技100m
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