レッドクルーズ 代表取締役CEO 保延裕子
自民党政権の経済政策の方向性が見えない――長引く日本株低迷の原因のひとつとして、外国人投資家などが盛んにこう指摘する。同感の個人投資家もきっと多い。ではどうして経済政策の方向性が見えなくなってしまったのか。これは私の独断と偏見に満ちた推測だが、福田政権はこの言葉におびえているのではないかと思う。その言葉とは「格差社会」だ。
大衆メディアでは小泉政権が格差をつくったとか負の遺産を残したという論調が優勢だが、これは危ない。ブログなどの一般書き込みを流し読みしても、経済界を除いては世論はこれら大衆メディアの論調に引きずられているように思える。「格差社会は良くない。格差をなくそう。」ということのようなのだ。そして「なんとなく」福田政権のムードもそっちにつられた。福田政権は、国民による自力での生産性向上を促す改革・経済合理化が将来に向けた強い日本にとって不可欠なことは頭ではわかっているが、結果として努力する者としない者の格差を生むことになるため、ストップ格差社会コールがかかると、選挙戦で負けることについての恐怖から、改革中断を選択し、非効率で生産性を損なうものであっても政府の介入と手厚い保護(ばらまき)を復活させる兆しをちらちらと見せることを選んだのだ。しかし、ばらまきの復活が顕著になりすぎると今度は経済界や経済メディアから突き上げをくらったのだ。つまり「格差社会」、この言葉のために、前にも後ろにも進めず金縛り状態なのだ。人気回復のために格差社会に配慮したつもりなのに福田政権の支持率が上がらないのは、首尾一貫性が無く誰のほうを見ているのかがわからないからだ。
この問題は深刻である。第三者的に傍観すればこれを自民党政権がどのように解決していくか大変興味深いが、そうも言っていられない。たとえば私はベンチャー経営者であり日本経済が減速、後退することになれば、真っ先に経営を直撃されてしまうからだ。中小企業の経営者は日頃より人材確保に苦労しており従業員のお給料だってできるだけ高くしたいと思っているはずだが、それもままならなくなってしまう。問題を解決するためには、この金縛り状態からどうしたら脱出できるのか、どこで政府は対応を誤ったのかを追跡する必要がある。
「格差社会」とは何なのか、問題視するべき「良くない」「排除すべき」格差社会のあり方とは何なのか、それについて、福田政権といわず安倍政権のころも、踏み込んだ議論がなされていなかったように思う。それをあいまいにしたまま、無条件に格差は何でも悪というコンセンサスができあがり、自民党政権もそれを飲まされた。これが、そもそもの、失敗だと思う。ここはとても大切なところで、本来であれば、とことん議論し共通認識に立ち、今後の改革に向けてのベースを確立しておくべきだったのだ。もちろん、議論の成り行きによっては、改革をせずに別の道を選択するということになっていたかもしれない。
「格差社会」はその言葉だけでは、それが問題あるものか、排除すべきものなのか判断できない。機会の格差なのか、結果の格差なのか、世界と比較した日本の格差なのか、日本の過去と比べ現在格差が広がっていることなのか、公平でない格差なのか、公平ではあるが望ましくない格差なのか、また別の格差なのか、それとも「どうせ努力しても」というあきらめムードがいけないのか、こういった中のどのような格差、または、格差に関わるどのような問題を排除しなくてはいけないのかコンセンサスをとらないで先に進むのは非常に危険であるのは明確だ。例えば「結果の格差」をゼロにすべしということになると、日本は社会主義、共産主義を選択するのか、というナンセンス極まる話になってしまう。また、現状分析もしっかりするべきである。例えば、生活が破綻している人が増加しているとしたら、原因はなんなのか。グローバル化のせいなのか、投機マネーの膨張の仕方に問題があるのか、お金使いが粗く計画性がない生活者が増えたのか、親になる意識も無く若くして異性に走り子供ができて破綻する世帯が増えたのか、身体が弱いのか、高齢なのか、原因によっても対策や補助の是非は全く異なってくるはずだ。
政府がそれをあいまいのままにしておくことも困るが、メディアも良くない。そういった明確な定義がされないままに、あたかも「結果の格差がいけない」とさえ匂わせるがごとく、発行部数・視聴率重視の大衆メディアなどが、縦割り行政や二重行政のほころびや、行き過ぎの米国資本主義経済といたずらに照らし合わせた、アンチ構造改革キャンペーンを張るのもいかがなものか。もうちょっと日本の将来をまじめに考えてほしい。
さて、構造改革の是非だが、私はこれは日本がとるべき道だと思う。でも当たり前だが方法論はよく検討しなくてはいけない。特に人口減や商品投機による物価高などで内需が弱く、輸出も円高や世界経済減速で不透明な現状でどのように進めていけるものなのか、これは実際問題としてプロ(?)であっても決して簡単ではないと思う。改革は一時的な痛みを伴うとは言え、痛みやショックをいかにして最小化するか、真剣に政策を議論するべき問題だろう。また、格差の固定化を防ぐべく、誰でも義務教育で一流の教育が受けられるようにすることを今一度しっかりと確保することも重要だ。
構造改革がなぜ必要かは、戦後の焼け野原からゼロからのスタートをきった日本経済が急速に高度成長を遂げた今、政府の介入を徐々に取り除くことが日本経済の活性化につながるからだ。親の庇護のもとにあった子供が成人を迎えても親が過保護にしていたら子供の成長が損なわれるのと同じだ。ひとり立ちが遅れるほどひとり立ちしにくくなるしその時のショックが大きくなる。これは以前の英国のサッチャー改革と似ていると思う。改革は最初は痛みを伴う。急に親の保護がなくなると子供によっては最初は迷ってしまうのだ。でもだんだんと強くなっていくのだ。このような構造改革を日本初めて経験する。であれば、政府としては、目指すところと、これが痛みを伴うことを説明しておく必要がある。国民の理解と覚悟を促すことは避けて通れないプロセスのように思える。小泉改革から学んだのはそこではないだろうか。
改革への国民の理解を勝ち取るには、まず、政治家や官僚が自身の身を持って示すのがベストだ。公務員改革、族議員改革を進め、その進展度合いをちゃんとコミュニケーションしていくことだ。実際には天下り先も激減したと聞いているがマスコミにもあまり取材されておらず国民に知られていない。最近の国土交通省の騒ぎは縦割り行政の弊害そのもので、こういう部分ばかりがクローズアップされると、国家公務員の全てが不当に私服を肥やしているみたいな誤解を招く。私が知る限り実態は異なる。国家公務員の給料は一般にキャリアといえども彼らの大学同期が多く勤める都市銀行や商社などに比べても決して高くはなく、天下りしてもせいぜいとんとんになるぐらいで、経済的には妻の実家(今はよく知らないが昔は政治家や企業経営者の家庭が珍しくなかった)の世話になっているケースも少なくない。テレビなどで騒がれるのは、縦割り行政のため、予算が必要でなくなったところにお金が集まり続けているような特別のケースのようだ。縦割り行政が放置され続けたのは、日ごろお金と票集めに奔走する政治家が、政策面については勉強不足のため官僚に丸投げせざるを得なかった側面が全く無かったとも言い切れないのではないかと思う。構造改革は官僚の積極的な協力があればスムーズに進むであろうから、政治家は、一方的に官僚に罪をなすりつける(外向きは)のではなく、同罪の側面があればそれを認めて協力をとりつけるのが得策のように、私には思える。
さて問題の核心は、格差の現状がどうか何が問題なのかということだと思うが、それについても思うところがあるのでそのうちに整理してブログにアップしてみたい。
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