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2008年5月 11日 11時58分

科学は人間の理解という制約を受ける

清水亮 ユビキタスエンターテインメント 代表取締役社長 清水亮

ブログの更新頻度が上がるのは、その反作用として猛烈に仕事があるからだ。

本当に忙しいときほど本業以外のことがしたくなる。

ロケットが推進剤(プロペラント)を後方に高速に噴出することで推進力を得るように、なにかを進めるときには必ず反作用が起きている。

僕の集中力というのは、せいぜい持続して3時間。かなり集中しているときでも6時間が限界である。極端な集中状態を「ゾーン」と呼んだりするが、一日に二回もゾーンに入ろうとすると、これはかなり厳しい。

ゾーンにいることは相当な疲労を伴う。だからふつうの日はゾーンに何度も入らないようにしている。

しかし忙しいとゾーンに何度も入る必要がある。

そこで、ゾーンとゾーンの間に休憩を置くわけだが、休憩を効率的にとるためには、本業と別のことで頭を使うのが良いと思う。

肉体的な運動をした後に整理体操が必要なように、頭脳的な負担のあとには整理思考が必要なのだ。

だから僕のブログが長いのは、長ければ長いほど、その反作用として仕事をしていた、ということが多い。

精神的にはではなく肉体的に疲労した場合は「疲れた」とだけ書いて寝てしまうこともあるが、頭が冴えて眠れないと言うときにブログはちょうど良い。

精神や思考でさえも慣性の法則が働いているようだ。

慣性の法則というのは、実は物理現象に限らず精神的現象をも説明できる普遍的な法則なのかもしれない。


古典物理学の法則を眺めていると、その美しさに惚れ惚れする。

 f = ma

 e = mc^2

 mv + MV= 一定

 F = G*(m*M)/(r^2)

物理学は直感的にわかりやすい。

しかし実際のところ、これが本当にものごとの本質を言い当てているかというと、おそらく間違っている。

これらは実際に起きている現象の近似でしかない。その背後ではより複雑な現象がより微細な法則の積み重なっている。

古典物理法則がなぜ美しく感じるかというと、それは人間の内面が投影されたものだからだと思う。

「これはこうである」という事実よりも、「こうあって欲しい」という希望が法則には投影されている。

物理学者達はその時代に観測可能な事実の中で最も自分にとって心地よい法則を見つけ出す。

だから本当は、重力の法則も慣性の法則も運動量保存の法則も、人間の持つ精神的な性質なのかもしれない。

神林長平の「敵は海賊 猫たちの饗宴」でこんなくだりがあった。


名前は、名付けられたモノではなく、名前を呼ぶ側に変化をもたらす


つまり、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て、それを万有引力の法則と名付けたからといって、リンゴや地球に変化が起きるわけではない。

けれどもニュートン以降の科学者は、リンゴが落ち、月が地球の周りを周回するのは万有引力の法則によると考えるようになった。

この古典物理的宇宙観は、アインシュタインが光速普遍の原理をもとに相対性理論を構築するまでは真実だと信じられていた。

高名な学者というのは、ひらたくいえば命名者であると思う。

現象を見つけ出し、体系化し、名前を付ける。

名前を付けることによって世界の理解を促進させ、人類の発展に貢献する。

実効性は疑わしいが、たとえば「ゲーム脳」もそうだろうし、「スポーツ心臓」もそうだ。学術上の分類を創り出すことで理解しようとする試みである。


宗教もそうだ。

人は宗教がなければ狂ってしまうと思う。

子供の頃は宗教の有難みが解らない。

僕だってそれが理解できたのは、つい先月である。

大好きな人が死んでしまったとき、その拠り所をどこに求めるべきか。

それを理解するための寓話が創り出され、肉体の死と魂の死を分離し、肉体は滅ぶとも、魂は生き続ける、という価値観を与えるのが宗教の主な役割だ。

肉体が死ぬと同時に魂も死ぬ、と教える宗教はあまり聞いたことがない。

宗教にとって生と死はその根幹を成す部分であり、宗教を成立させるのは純粋な死への恐怖、死との向き合い方だ。

僕は自覚をもって科学者でいるつもりで、思考や精神や魂というものが単なる物理的現象に過ぎないことを理解している。

というよりも、物理的法則という観点でみると、現在のところ、魂と呼ばれるものは脳の軸索(シナプス)に存在するデータとしか表現できない。

しかしこれは、画面なしで稼働中のコンピュータをCTやMRIにかけ、中身のプログラムを推定しようとしているに等しい。

つまりなにひとつ解らないと言うことだ。

魂はインスタンスだ。それは間違いない。

しかし、より高次的に見れば、魂はインスタンスであるというだけではないかもしれない。

宗教的世界観を完全に否定できるほどの証拠を科学は持っていない。

科学は人間が観測し、観測から理論構築をするというステップを踏む以上、人間の理解を超えた存在は幻想としてしか存在できない。

しかし人に魂がないとはどうしても考えられない。

コンピュータには魂がない。

人にはある。犬にも、猫にも。おそらくミジンコやバクテリアにも。全ての有機体に魂は存在する。

これが大きな違いだ。

生き物は魂のある有機体を摂取しないと生きながらえることが出来ない。コンピュータがどんなに賢いように見えても、それを食べて栄養を得ることは出来ない。

魂を維持するには他の魂を犠牲にする必要がある。食物連鎖と呼ばれている現象だ。

祖父、そして親父が脳出血で倒れた。

祖父は脳梗塞と脳出血を併発しており、全く身動きとれない状態だった。目を開けることも、口をひらくこともできず、それから3年で他界した。

親父はそれにくらべればマシで、既にリハビリに入っている。

祖母の方は、身体は健在だが、完全に僕や親父を見てもだれなのかわからなくなってしまった。

二人ともだ。

物忘れも酷く成りすぎると別人のようになってしまう。

僕にとってはたとえ全く身動きがとれなくても、僕が行けば涙を流す祖父の方が、魂を強く感じた。

魂とは意志であり、人間の情動そのものだと思う。

目的や意志を失った祖母は、文字通り「魂が抜けたように」見えてしまう。

それでもご飯が食べたいとか、ちやほやされたいとか、そういう意志はあって、辛うじて魂が現世に留まっている感じがする。


こういうとき、宗教は便利だと思った。

誰かを慰めるとき、事実を事実として受け止められないとき、超自然的な力が全てを認めてくれていたら、それほど心強いことはない。

宗教とは人が人の心を守るために考え出された世界理解のひとつの手段であり、そしてそれはしばしば本当に有功なものだ。

普段、自分の家がどの宗派なのかも知らないけれど、葬式というのはいいものだった。

とても退屈だけど、死者に対する自分たちなりのケジメの付け方ができる。

葬式は死者よりも残された者にとって大きな意味を持つのだ。

そういうとき、人間は科学よりもすぐれたものを必要とするのである。

※このエントリはVENTURE VIEWブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および VENTURE VIEW編集部の見解・意向を示すものではありません。

清水亮

清水亮

ユビキタスエンターテインメント 代表取締役社長

1976年新潟県長岡市生まれ。1998年から1999年まで米MicrosoftでゲームSDKの開発と普及活動に関わる。1999年9月のCESA DEVELOPERS CONFERENCEの立ち上げを経て、11月にドワンゴにて携帯電話コンテンツ事業を立ち上げる。2002年、日本人として初めて米国ゲーム開発者会議(GDC)のモバイルトラックでスピーチを行い、それをきっかけに渡米。米DWANGO North Americaコンテンツ担当副社長を経て、2003年ユビキタスエンターテインメントを設立。2004年情報処理推進機構(IPA)未踏ソフトウェア創造事業において次世代文章アプリケーションプラットフォームの研究開発を行い、2005年天才プログラマー/スーパークリエイターに認定される。 2006年、同研究に基づく独自のコンテンツ管理システム「ZEKE CMS」を考案し、製品化した。著書3冊。